理想のリベラル
最近、「リベラル」という言葉がずいぶん嫌われている気がする。
人権だ、平等だ、多様性だと聞くと、
反射的に身構える人も少なくない。
不思議な話だ。
人権も平等も、本来は誰にとっても悪い概念ではない。
それなのに、なぜリベラルは敬遠されるのか。
理由は単純だと思う。
理想を掲げるあまり、現実の悪事が見えていないからだ。
社会には、必ずズルをする人がいる。
制度の隙を探す人がいる。
善意を利用して得をしようとする人がいる。
国家レベルで、他国の弱点を突いてくる存在もいる。
これは悲観論でも陰謀論でもない。
ただの現実だ。
にもかかわらず、
「人は善良だ」
「分かり合える」
「信じれば大丈夫」
という前提だけで制度を語ると、
その制度は真っ先に悪用される。
その結果、どうなるか。
善意の人ほど遠慮し、
普通の人ほど混乱し、
悪意のある人だけが最大限に得をする。
これでは、人権も平等も守られない。
だから私は思う。
理想のリベラルとは、
人を信じる人ではない。
人を疑うことができる人だ。
もっと正確に言えば、
「人は必ず悪いこともする」
という前提に立ったうえで、
それでも人権が壊れない制度を作ろうとする人だ。
理想のリベラルは、
改革の順番を守る。
問題があるなら、
まず何が困っているのかを限定し、
誰が被害を受けているのかを整理し、
代替案を出し、
悪用された場合を列挙し、
それでもなお改善されるかを検証する。
「なくせ」「与えろ」
で終わらせない。
制度とは、壊すものではない。
壊れない形に作り直すものだ。
理想のリベラルは、
国家や制度を敵視しない。
国家は抑圧装置である前に、
雑音だらけの社会で、
一番弱い人を守るための仕組みでもある。
だから、
主権も、安全保障も、責任も、
現実として引き受ける。
敵国が存在することも、
制度が悪用される可能性も、
見ないふりをしない。
そのうえで、
それでも人権を守ろうとする。
嫌われる覚悟もある。
きれいな言葉だけを並べて、
好かれようとはしない。
味方に対しても、
「それは危険だ」と言う。
ここまで考えて、
ふと、手が止まった。
……あれ?
これ、私が言っている
「理想のリベラル」って、
制度を重く扱って、
悪用を前提にして、
国家や主権も現実として引き受けていて――
……これ、保守じゃないか?
人権を守ろうとすると、
制度を壊せなくなる。
制度を壊せなくなると、
責任を引き受ける側の思考になる。
その瞬間、
人はリベラルでも左でもなくなる。
ただ、現実を引き受ける人になる。
どうやら私は、
理想のリベラルを考えていたつもりで、
一番まっとうな保守の話をしていたらしい。
爆笑である。




