白い教室と一匹のハエ
教室という空間は、不思議だ。
机と椅子と黒板しかない。
背景は白い壁紙。
余計なものがなく、逃げ場がない。
勉強するには最適だが、
同時に、人や物の動きが
やけにくっきり見えてしまう場所でもある。
この話は、
そんな教室で、たまたま起きた
本当にどうでもいい出来事から始まる。
一匹のハエと、
それを追い回す私。
笑ってしまうような光景だが、
少しだけ立ち止まって観察してみると、
意外なほど多くのことが見えてきた。
これは、生物の話であり、
労働の話であり、
そして、教室で長く過ごした人間の、
小さな実感の記録だ。
教室には、机と椅子と黒板しかない。
背景は白い壁紙。
ごちゃごちゃした物は一切ない。
逃げ場がない、というのは、こういう空間のことを言う。
そこに一匹のハエが入ってきた。
白い壁の前では、ハエはやたらと目立つ。
飛んでいなくても、どこにいるか全部見える。
観察していると、すぐに分かることがある。
ハエは、ほとんど飛ばない。
壁に止まり、蛍光灯に止まり、じっと休んでいる時間の方が圧倒的に長い。
試しに、壁に止まっているハエを手で払う。
するとハエは高速で飛ぶ。
ビュン、と一気に距離を取る。
でも、その状態は続かない。
しばらくすると、また壁や蛍光灯に止まる。
逃げて、休んで、逃げて、休んで。
それがハエの基本動作だった。
蛍光灯に止まったときは、ほうきを使って追い払う。
叩きはしない。
ただ、動かすだけ。
するとまた高速移動。
しばらくすると、また止まる。
ここで、ふと気づく。
この高速移動、持久力のある動きじゃない。
一瞬は速いが、長くは続かない。
ハエは、全力で逃げるかわりに、必ず休憩を挟んでいる。
そこで私は、さらに意地悪な実験をした。
止まる前に追い払う。
止まってもすぐ追い払う。
とにかく休憩させない。
一人きりの教室で、ほうきを振り回しながらハエを追いかける。
他人様にはとても見せられない光景だ。
しばらくすると、変化が出る。
飛び方が雑になる。
直線が保てなくなる。
着地が下手になる。
さっきまでの鋭さが消えていく。
高速で飛ぶ力は、残っているようで、もう使えない。
回復する時間がないからだ。
その瞬間、結論ははっきりした。
過労死する。
ハエは怠けて止まっていたわけじゃない。
次に全力で飛ぶために、休んでいただけだ。
休憩を前提に設計された生き物から、
休憩を奪えば、壊れる。
教室という、逃げ場のない白い空間で、
私はそれを目の前で見た。
人間も同じだと思う。
常に動け。
止まるな。
次へ行け。
そうやって休憩を奪えば、
最初は動く。
次に雑になる。
そして、ある時、前触れなく、止まる。
机と椅子と黒板と私とハエ。
たったそれだけの条件で、
過労死の構造は、十分に見えてしまった。
ハエは、小さな身体で、
とても大事なことを教えてくれた。
書き終えてから、
少し残酷な話だったかもしれない、と思った。
ハエを観察し、
追い払い、
休ませず、
結論を出す。
でも実際に残酷だったのは、
行為そのものより、
そこから見えてしまった構造のほうだ。
ハエは、ある瞬間、空中で突然、落ちる。
ぶつかったわけでもない。
叩かれたわけでもない。
ただ、飛んでいたのに、
力が抜けたみたいに、ストンと落ちる。
最初は見間違いかと思った。
でも、何度か追い続けていると、
はっきり分かる。
逃げ切れなかったわけじゃない。
方向を誤ったわけでもない。
もう、飛べなかっただけだ。
高速で飛ぶ。
休む。
それを繰り返しているうちは、
まだ余裕がある。
でも、止まるたびに追い払って、
止まる前にも追い払って、
回復の時間を与えないと、
ある瞬間、限界が来る。
音もなく、
抵抗もなく、
ただ、落ちる。
「疲れた」じゃない。
「諦めた」でもない。
切れたんだと思う。
教室で、その瞬間を見たとき、
私はぞっとした。
人間で言えば、
倒れる直前でも、
苦しいとか、
つらいとか、
叫べる余裕すらない状態。
突然、立っていられなくなる。
突然、動けなくなる。
過労死って、
倒れる直前まで
ちゃんと働いていることが多い。
止まることを許されず、
休む理由も与えられず、
「もう少し」「あと一回」を繰り返して、
ある瞬間、
体のほうが先に判断を下す。
もう、無理だと。
ハエは、空中で落ちた。
それは、とても静かな出来事だった。
血も出ないし、
音もしない。
でも、
それ以上に、はっきりした終わり方だった。
教室という、
逃げ場のない白い空間で、
私はそれを見た。
だから今でも、
「頑張りすぎはよくない」
なんて軽く言えない。
私は知っている。
頑張りすぎた先は、
徐々に遅くなるんじゃない。
ある日、突然、落ちる。
その瞬間を見てしまったから。
休憩を前提に動く存在から、
休憩を奪うとどうなるか。
その目的を果たしたと思っている。




