第四話:重ねた刃撃と、軋む肉体(中編)
根拠のない微かな希望に縋り、重い足を踏み出した。
一歩進むごとに、濡れた腐葉土が靴底の下でグシャリと嫌な音を立てて沈み込む。
足腰の筋肉が軋み、鉄剣の重みがずっしりと右腕にのしかかる。長さ六十センチほどの錆びた鉄の塊。刃こぼれだらけで、重さは二キロ近くあるだろうか。現代の包丁しか握ったことのない自分にとって、それは歩くだけで体力を削り取る忌まわしい枷のようだった。
それでも、手放すことだけはできなかった。
これを持っていなければ、この緑の深淵に潜む化け物たちに、丸腰で食い殺される。その恐怖だけが、強張った指先を柄の革巻きに強く縛り付けていた。
どれほど歩いただろうか。
三十分か、あるいは一時間か。
時計のない世界では、時間の経過すら恐ろしいほど曖昧だった。息が上がり、膝が震え始める。木々の間を縫うようにして歩いているうちに、自分が本当に下っているのか、それとも同じ場所をぐるぐると回っているのかすら分からなくなってきた。
周囲の景色は、どこまで行っても変わらない。
苔むした巨木、垂れ下がる蔦、枯れ葉の積もった泥濘。
冷たい風が木立の間を吹き抜けるたび、ザザザ、と頭上で葉が擦れ合い、その音が誰かの嘲笑のように聞こえて足がすくむ。
(戻りたい……。神様、お願いだから……夢なら覚めてくれ……)
奥歯をガチガチと鳴らしながら、心の中で何度も同じ祈りを繰り返していた。
ワンルームの万年床。散らかった漫画本と、つけっぱなしの液晶画面。カップ麺の匂い。あの退屈で、無為で、死んでしまいたいほど鬱屈としていた日常が、今では喉から手が出るほど恋しかった。
あそこに戻れるなら、どんな仕事でもする。他人の視線が怖いなんて甘えたことは二度と言わない。だから、助けてくれ。
――ピチャ。
不意に、後方の茂みから、泥を踏みしめる小さな水音が響いた。
心臓が、跳ね上がった。
全身の毛穴という毛穴が収縮し、冷たい汗が背筋を滝のように流れ落ちる。
立ち止まり、息を殺した。
気のせいか。風の悪戯か、小動物が跳ねただけか。
そう自分に言い聞かせようとした瞬間――。
――クチュ、カサリ。
今度は、左手の太い幹の向こう側からだった。
明らかに意図を持って、間合いを測りながら足音を忍ばせている。それも、一つではない。二つ。異なる方向から、湿った土を踏む音が聞こえていた。
ゆっくりと、首筋を軋ませながら振り返る。
十数歩ほど離れたシダの群生の陰から、ぬっと突き出していたのは――横に長く尖った、泥色の耳だった。
続いて現れたのは、見覚えのある醜悪な顔貌。
潰れた鼻、突き出た下顎に並ぶ黄ばんだ乱杭歯。そして、粘つくような悪意と飢えをぎらつかせた、濁った黄色い瞳。
「ひっ……!」
喉の奥で、引き裂かれたような短い悲鳴が鳴った。
小鬼だった。
しかも、一匹ではない。
右手の朽ち木の影からも、低く唸り声を上げながら、もう一匹の緑色の異形が這い出してきていた。
二匹。
どちらも身長は自分のみぞおちほどしかないが、筋張った手足と異常に膨らんだ下腹部は、昨日の個体と寸分違わぬ異様な威圧感を放っている。
そして何より絶望的だったのは、彼らが手にしていた凶器だった。
左の一匹は、木の棒の先端に尖った獣の骨を蔦で巻き付けた、粗末な短槍。
右の一匹は、手のひら大の平たい石を荒縄で固定した、無骨な手製の石斧。
その刃先には、こびりついた黒ずんだ泥と、腐敗した糞尿のような汚物がねっとりと塗りたくられていた。
――ギチ、ギギィ……。
小鬼どもが、喉の奥を鳴らして嗤うような奇声を漏らした。
黄色い瞳が、こちらの身体をじっと舐め回すように見つめている。
その視線が、服にこびりついた乾いた血痕に向けられた瞬間、彼らの鼻孔がヒクヒクと激しく蠢いた。
この血の匂いに引き寄せられたのか、それとも最初から獲物としてつけ狙われていたのか。 理由は分からない。だが、濁った黄色い瞳に宿る剥き出しの飢えと、獲物を値踏みするようなギラついた視線だけは、痛いほど理解できた。
(嘘だろ……なんで……二匹も……っ!)
血の気が一気に引いていく。
昨日の一対一ですら、偶然振り回した剣が首に当たらなければ、今頃自分が死体になっていたのだ。それなのに、今度は二匹。逃げ場のない森のど真ん中で、挟み撃ちにされている。
足がすくみ、膝が笑って動かない。
後ずさろうとした踵が、露出した木の根に引っかかり、大きく体勢を崩しかけた。
その隙を、野生の略奪者たちが見逃すはずもなかった。
「ギィヤアアッ!」
耳をつんざくような甲高い咆哮とともに、右手の石斧を持った小鬼が地面を蹴った。
野犬のような瞬発力。泥濘をものともせず、低い姿勢から弾丸のように突っ込んでくる。高々と掲げられた石斧が、腐敗臭を撒き散らしながらこちらの頭部目掛けて振り下ろされた。
(死ぬ――!)
頭の中が、真っ白に染まった。
回避する術も、ガードする知識もない。引きこもりの自分ができることといえば、両手で顔を覆い、目を固く閉じて痛みに怯えることだけだった。
だが――。
――ガツィィンッ!
激しい火花と、金属が石を削る耳障りな衝撃音が、目の前で炸裂した。
「え……?」
意識が追いつくよりも早く、肉体が勝手に動いていた。
気づいた時には、低く腰を落とし、斜めに構えた鉄剣の刃で石斧を斜め上へと弾き飛ばしていた。
ガツンと柄を通して手首に重い痺れが走る。だが、滑るはずの泥の上で、両足はまるで根を張ったようにがっしりと地面を捉え、身体は微塵も揺らいでいなかった。
(な、んだ……? 俺が……弾いたのか……!?)
頭が理解を拒絶していた。
剣道など習ったこともない。喧嘩の経験すらない。目を瞑って縮こまることしかできなかったはずの自分が、なぜこんな姿勢で凶器を弾き返しているのか。
――グギャッ!?
渾身の力で振り下ろした一撃を弾かれ、小鬼の体勢が大きく前のめりに崩れる。黄色い瞳に、獲物を見下していた余裕から一転、驚愕と狼狽の色が走った。
そして、身体は止まらなかった。
弾いた勢いを利用して、腕が勝手に鋭い円弧を描いて旋回する。
それは、自分の意志ではない。
この肉体の、神経の隅々まで染み付いた闘争の記憶――純粋な「反射」そのものだった。
「や、め――!」
口から、自分自身を制止するような情けない叫びが漏れた。
だが、右腕の筋肉は容赦なく収縮し、刃こぼれした鉄の塊を、無防備に晒された小鬼の首筋へと叩きつけていた。
――グチャリ。
鈍く、重い破壊音が響いた。
剃刀のような切れ味ではない。刃こぼれした厚い鉄刃が、皮膚を無理やり引き裂き、筋肉を圧壊させ、頸椎の骨にめり込む抵抗。
生々しい感触が、柄を握る両手のひらにダイレクトに伝わってくる。
「ギャルルッ……!?」
小鬼の口から血泡が噴き出し、身体が痙攣して泥の中に崩れ落ちた。
首の半ばまで深く食い込んだ鉄剣の隙間から、ドス黒い血液が激しく噴き出し、すね当てと泥の地面を汚していく。
(また……殺した……!?)
指先が震え、胃が激しく逆流しかける。
だが、戦慄に浸る時間すら、野生の戦場は許してくれなかった。
「ギシャアアアッ!」
仲間の死に激高したもう一匹――骨の短槍を持った小鬼が、横合いから飛びかかってきていた。
突き出された槍先が、空気を切り裂く。
反射的に身を引いたが、首元に食い込んだ鉄剣を引き抜くのが一瞬遅れた。
――ツッ!
(後編に続く)
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