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泥濘の双影  作者: 須藤
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第四話:重ねた刃撃と、軋む肉体(前編)

 木々の枝葉の隙間からこぼれ落ちてきた淡く青白い朝の光が、身を潜めていた老木の洞(うろ)をうっすらと照らし出した。


 森の冷気は夜明けとともに一段と研ぎ澄まされ、吐き出す息が白い煙となって薄暗い空間にたゆたう。

 まるで凍りついた木彫りの像のように固まっていた身体を、錆びついた鉄の扉を無理やり押し開けるような鈍い痛みとともに、自分はゆっくりと解いた。


「っ……あ……ぐ……」


 関節という関節が強烈に軋(きし)み、悲鳴を上げる。

 一晩中、冷え切った湿った土の上で膝を抱え、極度の緊張と恐怖に晒(さら)され続けた代償だった。首筋から背中、腰にかけての筋肉が鉛(なまり)のように重く強張(こわば)り、指先は感覚を失って紫がかった土色に変色している。

 生きている。

 あの漆黒の闇の中、洞の外を徘徊(はいかい)していた巨大な肉食獣の足音と、遠くで木霊(こだま)していた怪物の咆哮(ほうこう)を、自分はやり過ごしたのだ。奇跡としか言いようのない生存だった。


 だが、安堵の息を漏らす余裕など、どこにもなかった。


 胃袋が激しく痙攣(けいれん)し、内側から締め付けられるような激痛を訴えていた。

 昨晩、木の洞に入る前にあの硬い干し肉をひとかけら胃に押し込んだきりだ。小鬼を殺した直後に胃の中身をすべて吐き出し、極度の緊張と冷え込みの中で一晩を過ごした身体にとって、親指ほどの肉片などとっくに燃え尽きていた。内壁同士を擦り合わせるような飢えと脱水が、内臓を苛《さいな》んでいる。喉(のど)の奥はヤスリを擦り付けられたように乾き、息を吸い込むたびにヒリヒリと痛んだ。


 震える手で、腰にぶら下げた革水筒を手探りで引き寄せる。

 木栓を抜き、軽く振る。タプン、と内部で水が揺れた。昨夜、必死に渇きを我慢したおかげで、まだ半分ほどは残っている。

 一気に煽(あお)りたくなる衝動を、奥歯を噛み締めて必死に押し殺す。どこまで続いているかも分からない森の中で、今後いつ水場を見つけられるか分からないのだ。水筒の口に唇を押し当て、渇ききった喉を湿らせるためだけに、ほんの一口分だけ、泥混じりのぬるい液体を含んだ。

 舌の上に広がる生臭い土の風味。それを無理やり喉の奥へ押し込むと、渇ききった粘膜が焼けるような刺激とともに潤いを吸い上げていった。


 だが、喉を潤しただけでは足りない。

 胃壁を直接爪で掻きむしられるような強烈な飢え。このまま何も腹に入れずに歩き出せば、途中で力尽きて倒れ、森の餌食になる――弱り切った思考の奥で、生存本能が激しく警鐘を鳴らしていた。


 震える指先で、洞の奥に引き寄せていた革袋から布の小袋を取り出す。

 中から、指先ほどの大きさの黒ずんだ干し肉をもうひとつ引っ張り出した。

 木片のように硬い肉片を奥歯の間に押し込み、ギリギリと音を立ててすり潰す。唾液を絞り出し、痛む顎で時間をかけて噛み砕いていくと、強い塩気と獣の脂の味がじんわりと滲み出してきた。

 十分に柔らかくなったそれを、喉を鳴らして無理やり胃の腑へと飲み込む。

 冷え切っていた腹の奥に、小さくとも確かな熱の塊が落ちていくのを感じた。立ち上がり、この森を歩き抜くための、最低限の燃料だった。


「ふぅ……っ、ふぅ……」


 荒い呼吸を整えながら、老木の幹の陰から、恐る恐る周囲の様子を窺(うかが)った。

 冷え切った森の底には白い朝靄(あさもや)が低く立ち込め、数十歩先の大木すらぼんやりと霞んでいる。その白く煙る空間を貫くように、頭上を覆う鬱蒼とした樹冠(じゅかん)の隙間から、薄い陽光が幾筋もの青白い光の帯となって降り注いでいた。周囲の木々は静まり返り、時折、名前も知らない小鳥が梢(こずえ)の間を羽ばたいていく乾いた羽音だけが聞こえていた。

 獣の気配はない。


 胸に抱え込んでいた無骨な鉄の剣を握り直し、身を潜めていた老木の根元から這い出た。

 立ち上がろうとした瞬間、立ちくらみで視界がぐらりと揺れ、思わず老木の苔むした樹皮に手をついた。

 視界に入った自分の服装に、胸の奥からぞっとするような嫌悪感がこみ上げる。

 昨日の戦闘で浴びた小鬼の返り血が、麻のシャツと硬い革ベストの上で黒く固まり、乾いた泥とともにバリバリとした異様な手触りを作っていた。生ゴミと錆びた鉄が混ざり合ったような悪臭が、体温で温められて立ち上り、鼻腔(びこう)を容赦なく突く。


 昨夜、あの夜行性の猛獣が自分を素通りしていった理由など、知る由もなかった。

 極度の低体温と、全身にこびりついた汚物や死臭が、皮肉にも生きている人間の気配を完全に覆い隠していたのだ。だが、そんな生存のからくりなど想像すら及ばず、ただ自らの身体に染み付いた死の痕跡に、たまらない気味悪さを覚えるだけだった。


「行かなきゃ……」


 声に出してみる。

 だが、自分の喉から漏れ出たのは、記憶にある自分の声よりも明らかに低く、太く掠れた男の響きだった。冷え切った森の靄の中に、その見知らぬ音色が吸い込まれて消える。

 思わず喉元に手を当てた。……昨日、恐怖で叫び散らし、胃液を吐き戻したせいで喉が潰れているのだろうか。そう自分に言い聞かせて胸の奥の微かな違和感を打ち消したが、心細さは一段と増すばかりだった。

 ここに留まっていても、寒さと飢えで干からびて死ぬだけだ。

 どこかへ出なければならない。人が住む村、街道、あるいは誰かの姿が見える場所へ。


 だが、どちらへ向かえばいいのか。


 見渡す限り、三百六十度すべてが巨大な樹木と絡み合う蔦(つた)、膝丈まで茂った薄暗い下草で埋め尽くされていた。

 標識もなければ、舗装された道路もない。電柱も、遠くに見える高層ビルの影も、どこを見渡しても見当たらなかった。空を見上げても、重なり合った枝葉が視界を遮り、太陽が東にあるのか南にあるのかすら判然としなかった。

 高校を出てから六畳間のワンルームとバイト先、深夜のコンビニの往復しか知らなかった自分にとって、道なき原生林を歩く知識など皆無(かいむ)だった。ゲームの中なら画面の右上にミニマップが表示され、目的地には光るマーカーが立っていた。だがここには、命を保証してくれるシステムなど何一つ存在しない。


 昨日の記憶を手繰り寄せる。

 自分が最初に目を覚ましたあの洞窟――小鬼と遭遇し、命を奪ったあの場所から、夕暮れの中に逃げ出してきたはずだ。斜面を下るようにして走った記憶がある。ならば、このまま傾斜を下っていけば、いずれ川か開けた場所に出るのではないか。


(中編に続く)

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