第四話:重ねた刃撃と、軋む肉体(後編)
鋭い痛みが、左の太腿を走った。
骨の切っ先が革のズボンを裂き、肉の表面を浅く抉る。
生暖かい血が滲み出すのと同時に、刃先にこびりついていた汚物のせいか、傷口を直接火で炙られたような激しい灼熱感に襲われた。
「う、わああっ!」
激痛と恐怖で、背骨に電撃が走る。
足の踏ん張りを失い、小鬼もろとも泥濘の中へと転倒した。
ベチャリ、と顔のすぐ横で泥が跳ねる。
覆いかぶさってきた小鬼の、強烈な腐敗臭が鼻孔を塞いだ。涎を垂らした乱杭歯が、こちらの喉笛を噛みちぎろうと、数センチの距離まで迫る。
小鬼の両手が、首を絞め上げようと伸びてくる。木の枝のように痩せ細った腕のどこにそんな力があるのか、信じがたい怪力で喉を締め上げられ、喉仏がギリギリと音を立てて圧迫された。
「ぐ、ふっ……ゲホッ……!」
息が詰まる。視界が急速に赤黒く染まっていく。
死ぬ。今度こそ、本当に死ぬ。
こんな森の泥水の中で、化け物に喉を食い破られて、ゴミのように死んでいくんだ――。
その瞬間、胸の奥で、何かがぷつりと音を立てて切れた。
恐怖の限界を超えた時、人間の底から湧き上がるのは、理屈ではない純粋な「生存本能」の狂気だった。
「離せぇぇぇッ!」
狂ったように叫び、塞がれかけた喉から獣のような咆哮を絞り出した。
自由の利く左手で小鬼の苔色の顔面を鷲掴みにし、親指をその濁った黄色い眼球目掛けて力任せにねじ込む。
「ギエエエェェッ!?」
小鬼が絶叫し、首を絞める力が一瞬緩んだ。
その隙に、無我夢中で泥を蹴って身を捩り、覆いかぶさっていた小鬼の身体を力任せに押し倒す。
体勢を入れ替えて馬乗りになり、泥の中から引きずり出した鉄剣の柄を逆手に握り直した。相手の胸板――骨ばった肋骨の隙間目掛けて、無我夢中で刃の切っ先を突き立てる。
泥にまみれながら、両腕と上半身の全体重をかけて押し込んだ。
――ボグッ。
肉を貫き、胸骨を押し割り、心臓を直接押し潰すような、鈍く湿った手応え。
小鬼の身体が弓なりに反り、濁った目から光が急速に失われていく。
口から大量の赤黒い血を吐き出しながら、ピクピクと手足を痙攣させ、やがて、その抵抗が完全に途絶えて動かない肉塊へと変わっていった。
「はぁっ……! はぁっ……! がっ……!」
泥まみれの死骸から弾かれたように飛び退き、四つん這いになって泥濘の上を這いずり下がった。
荒い呼気が、喉を鋭く擦過する。
胸が破裂しそうなほど激しく波打ち、酸素を求めて肺が喘いでいた。
沈黙が、戻ってきた。
耳鳴りのようなキーンという高音の奥で、自分の心臓が早鐘のように肋骨を叩く音だけが響いている。
目の前には、二つの苔色の死骸。
首を半分断ち切られた個体と、胸を深く抉られて息絶えた個体。
泥と混ざり合った血溜りから、微かに生温かい湯気が立ち上り、木漏れ日の中に薄い靄を作っていた。
「生き……残った……?」
震える両手を見つめた。
泥と、返り血と、相手の体液で、指先から肘までが真っ黒に染まっている。
そして、握り締めていた鉄剣。
もともと刃こぼれだらけだった刀身は、石斧を弾き、硬い骨を断ち切った衝撃で、さらに無残に歪んでいた。刃の中央には深い欠けがいくつも刻まれ、まるで使い古されたのこぎりのようにギザギザになっている。
その時――激痛が、遅れて両腕を襲った。
「痛っ……あ、ぐっ……!」
手首から前腕、そして肩の関節にかけて、骨そのものが軋むような激しい痛みが突き抜けた。
小鬼の石斧を受け止めた衝撃と、全体重をかけて骨を断ち切った反動。
筋肉は過度の緊張で硬直し、筋繊維が引き千切れたかのように熱を持って脈打っている。指を開こうとしても、強烈な痙攣で固まってしまい、柄から手を離すことすら容易ではなかった。
左太腿の裂傷からも、ズキズキとした熱い痛みが這い上がってくる。傷自体は浅いが、泥と汚物のせいで嫌な痺れが皮膚の奥へ広がり始めていた。
肉体は、限界を告げて軋んでいた。
だが――それ以上の衝撃が、精神を凍りつかせた。
ふと、自らの異様さに気付いたのだ。
昨日、初めて小鬼を殺した時、自分はどうだったか。
恐怖と罪悪感に押し潰され、その場に崩れ落ちて胃液をぶちまけ、涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにして泣き叫んでいたはずだ。怪物の命を奪ってしまったという生理的な拒絶反応に、心も身体も完全に破壊されていた。
それなのに。
今、目の前で二つの命を奪い、その生温かい返り血を全身に浴びながら――涙すら、一滴もこぼれていなかった。
激しい嫌悪感も、後悔もある。
だが、狂ったように跳ねていた心臓の鼓動はすでに冷え切るように落ち着きを取り戻しつつあり、頭のどこかで「次の敵は来ないか」「太腿の傷の手当てをどうするか」という、恐ろしいほど現実的で冷徹な生存の計算を始めている自分がいた。
慣れたわけじゃない。
昨日の恐怖がずっと途切れることなく続いていて、ただ、心が麻痺しているだけだ。
立ち止まって怯えることすら、命取りになるから。
部屋に迷い込んだ小さな蜘蛛すら、ティッシュで包んで逃がしていた自分。
他人に怒鳴られるのが怖くて、深夜のコンビニの灯りだけを頼りに生きていた、無害で臆病な自分。
そんな自分が、二匹の怪物の首を断ち、胸を刺し貫いて、生き延びている。
それだけではない。
あの最初の一撃。
石斧が振り下ろされた瞬間、身体が勝手に動き、完璧な角度で攻撃を弾き返した、あの感覚。
(なぜだ……? どうして、身体が戦い方を知っているんだ……!?)
自分の頭はパニックになっていた。逃げ出したいと叫んでいた。
それなのに、この肉体は――この筋肉は、骨は、腱は、命を奪うための動きを完全に記憶していた。
まるで、何年もの間、血と泥にまみれて戦い続けてきた歴戦の戦士のように。
自分の手を見下ろす。
泥と血に汚れた、節くれだった無骨な手。
手のひらには分厚いタコが張り付き、指先は荒々しく硬化している。
これは、昼夜逆転してキーボードを叩いていただけの、自分の手ではない。
背筋を、冷たい氷の刃で撫でられたような戦慄が走った。
自分は、ただ見知らぬ世界へ放り出されただけではないのではないか。
この肉体は、一体誰のものなのだ。
そして――このまま戦い続け、命を奪い続ければ、自分という人間の心は、一体どうなってしまうのか。
「あ……ぁ……」
掠れた呻きが、泥まみれの唇から漏れ出た。
命を奪うことへの麻痺。
肉体に刻まれた見知らぬ闘争の記憶。
生き残れたという安堵を遥かに上回る、底知れない違和感と恐怖が、黒い霧のように胸を満たしていった。
だが、立ち止まっている暇はなかった。
血の匂いは、すでに冷たい朝の森に漂い始めている。
この匂いが、さらなる捕食者や小鬼の群れを引き寄せるのは時間の問題だった。
激痛に軋む両腕で、無理やり鉄剣を泥から引き抜いた。
刃についた脂と血液を枯れ葉で乱暴に拭い、痛む左足を引きずりながら、再び歩き出す。
どこへ向かっているのかも分からないまま。
ただ、自らの身体への戦慄を抱えながら、鬱蒼とした深緑の迷宮の中へと、足を踏み入れていった。
(続く)
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