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泥濘の双影  作者: 須藤
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第二話:引き抜いた鉄刃と、渇いた喉(後編)

 一歩進むごとに、ぐちゃりと湿った土が靴底を吸い寄せる。

 地表に浮き出た木の根は濡れて苔むし、油断すれば足を取られて滑りそうになった。

 両足の太ももは乳酸が溜まりきって小刻みに震え、膝が笑っている。頭痛は依然として側頭部を締め付け、肩に食い込む革袋の帯が皮膚を痛めつけた。


 それでも、立ち止まることはできなかった。

 背後を振り返る勇気すらない。ただただ下を向き、泥にまみれた自分の足先と、頼りない踏み分け跡だけを見つめながら、重い体を引きずるようにして一歩一歩を重ねていく。


 どれほど歩いただろうか。数十メートルか、それとも数百メートルか。距離の感覚すら定かではなかった。


 ふと、視界の端が急速に暗さを増していることに気づき、顔を上げた。

 幾重にも重なり合う樹冠(じゅかん)の隙間から、見上げる空がわずかに覗いていた。


 その空が、鈍い灰色から、濁った赤銅色(しゃくどういろ)へと染まり始めている。

 夕暮れだった。


 木々が密集する森の中は、開けた平地よりも遥かに早く夜が訪れる。

 枝葉の天井が残光を遮り始め、周囲の木々の根元には、急速に濃密な闇が澱(おり)のように溜まり始めていた。

 冷たい風が原生林の木々をざわざわと揺らし、遠くの茂みの奥で、ガサリと何かが蠢く気配がした。


 日が、暮れていく。

 街灯も、家の明かりも、コンビニの看板もない。

 かつて経験したことのない、本物の漆黒の『夜』が、すぐそこまで迫っていた。


 細い獣道を夢中で辿り続けた先で、ふいに視界が開けた。

 そこだけ密集していた巨木が途切れ、学校の教室ほどの広さを持った丸い空間が広がっていた。地面には丈の低い草が疎らに生えているだけで、頭上を覆い尽くしていた枝葉の天井がぽっかりと抜け落ちている。


 立ち止まり、見上げた。

 丸く切り取られた視界の先に、夕闇に沈みゆく薄暗い空が広がっている。赤銅色の光はすでに失われ、冷たい濃紺と紫のグラデーションが、音もなく空を塗りつぶしていた。


 ――これ以上進むのは、危険だ。

 頭で考えるより早く、全身の皮膚が粟立ち、本能がそう告げていた。

 夜の帳が下りれば、ここは完全な闇に包まれる。ましてやこんな開けた広場では、どこからでも姿が見通せてしまう。もし夜行性の獰猛な獣や、あの化け物の群れが通りかかれば、逃げ場もなく格好の獲物にされるだけだ。


 息を殺し、広場から数歩後退して再び森の縁へと身を引いた。

 震える視線で周囲の木々を見回す。身を隠せる場所はどこかにないか。

 薄闇の中、広場のすぐ脇にそびえ立つ、ひときわ太い老木の根元に目が留まった。

 長い年月を経て風雨に削られたのか、幹の根元が大きく裂け、大人の身体がすっぽりと入り込めるほどの深い洞(うろ)が空いていた。


 足音を忍ばせ、吸い込まれるようにその洞へ駆け寄った。

 濡れた木の皮の匂いと、乾いた木屑の匂いが立ち込める狭い空間。背中を丸め、泥だらけの身体を滑り込ませると、まるで測ったようにぴったりと収まった。

 三方を分厚い樹皮に囲まれたことで、吹き抜ける冷たい風が遮られ、ほんのわずかだけ寒さが和らぐ。


 壁に背を預け、膝を抱え込んだ瞬間、張り詰めていた糸がプツリと切れた。

 荒い呼吸とともに、耐えがたい生理的な苦痛が喉元を襲った。


 ――喉が、焼けるように痛い。

 洞窟での激しい嘔吐で胃液をぶちまけ、その後の恐怖と疲労で汗をかき続けた身体は、極限まで水分を失っていた。

 食道の内壁が貼り付き、息を吸い込むたびに乾いた喉の奥が擦れ合って激痛が走る。舌は乾ききって上顎に張り付き、唾液の一滴すら滲み出てこない。


「水……水、ないのか……」


 掠れきった声で呟きながら、肩から外した革袋を膝の上に抱え込んだ。

 手探りで袋の口を縛っていた革紐を解く。薄暗い木の洞の中で、目を凝らしながら、初めてこの身体の持ち主の所持品を改めた。


 中から現れたのは、見たこともない実用一点張りの道具の数々だった。

 手のひらほどの大きさの、使い込まれた小ぶりの片刃ナイフ。

 丁寧に巻き取られた丈夫な麻紐と、指の太さほどの短いロープ。

 煤で黒ずんだ硬い鉄片と、角の丸い灰色の石――火打ち金と火打石だろう。

 そして、手のひらに収まる大きめの二枚貝。貝殻の表面には、擦れかけた赤い染料で何かの印が描かれており、貝の隙間からは独特の油と乾いた薬草のような微かな匂いが漏れていた。

 さらに、薄い布の小袋に分けられた、カチカチに硬化した黒っぽい干し肉の塊。


 過酷な世界を生き抜くための、無駄を極限まで削ぎ落としたサバイバルの道具たち。

 そして、袋の底から現れたのは、大きなしずくのような形をした、先端に木製の栓が差し込まれた分厚い革袋だった。


 持ち上げた瞬間、ずっしりとした重みとともに、タプン、と内部で液体が揺れる音がした。

 ――水だ。


 指先が狂ったように震えた。

 革袋を抱き寄せ、固くねじ込まれていた木の栓を、指に爪を立てて力任せに引き抜く。

 ポン、と湿った音がして栓が外れた。

 口元に近づけると、革袋の内側から、冷たさと、微かな湿り気を含んだ匂いが漂ってくる。


 だが、見知らぬ世界の、見知らぬ他人の荷物だ。毒や、得体の知れない薬品だったらどうする?

 恐怖が頭をよぎり、栓の口に指の腹を当て、わずかに滲み出た液体を、乾いた舌先でぺろりと舐めた。


 冷たくはない。ぬるい。

 鞣(なめ)した獣の革の脂っこい匂いと、鉄さびのような風味が混ざり合い、決して美味いとは言えない雑味だらけの味だった。

 だが――間違いなく、水だった。


「っ……あ……!」


 理性が吹き飛んだ。

 革袋の注ぎ口に唇を押し当て、一気に傾けた。


 ゴクッ、ゴクッ、ゴクッ。

 ぬるい水が、焼けるように熱を持っていた喉仏を押し広げ、干からびた食道へと滑り落ちていく。

 砂漠に水が染み渡るように、乾ききった胃壁(いへき)が水分を吸い上げ、全身の細胞が歓声を上げているかのような錯覚を覚えた。美味いとか不味いとかではない。生きるための水分が、命そのもののように身体の内側を満たしていく。


 無我夢中で喉を鳴らし、貪るように呷り続けた。


 だが――半分ほど喉に流し込んだところで、ハッと我に返った。


 ――待て。全部飲んで大丈夫なのか?


 慌てて唇を離し、息を荒らげながら革袋を手元に戻した。

 ここは、蛇口をひねれば透明な水が出る日本じゃない。コンビニも自販機もない。深緑の原生林の只中であり、次に行き当たる水場がどこにあるのか、そもそも飲める水なのかすら分からないのだ。

 未知の世界において、清潔な水は、金や食料以上に命に直結する。


 喉はまだ「もっとくれ」と激しく渇望していたが、強い意志でそれを押し殺した。

 震える手で木の栓を拾い上げ、革袋の注ぎ口にぎゅっと力任せに押し込んで蓋を閉じる。


 ずっしりと軽くなった革袋を胸に抱きしめながら、深く、長く息を吐き出した。

 背中を包む木の洞の外では、いよいよ光が消え去り、夜の深い帳が原生林を飲み込もうとしていた。


 すぅ、と冷気が足元から這い上がってくる。

 喉の激痛が引いたことで、今度は急速に身体が芯から冷え込んでいることに気づいた。汗ばんでいた背中や首筋が冷たい外気で一気に冷やされ、ガタガタと歯の根が合わなくなる。


 身を縮め、薄れゆく残光を頼りに、自分が今身につけている衣服を手で探り、改めて見下ろした。

 肌の上に直接着ているのは、粗く織られた厚手の麻の長袖シャツ。その上に、擦り切れた飾り気のない鞣(なめ)し革のベストを重ねている。下半身は同じく泥と草汁にまみれた麻のズボンで、足元には膝下近くまで覆う頑丈な革のブーツを履いていた。

 どれも実用的で、現代の化学繊維とは違う、ずっしりとした重みと硬さがある。


 ふと、右足のブーツに手を触れたとき、硬い異物の感触に指先が止まった。

 目を凝らしてよく見ると、革ブーツの右足外側、足首のすぐ近くに小さな細い鞘が頑丈な糸で縫い付けられていた。その中に、手のひらにすっぽり収まるほどの小さな短剣――靴底に忍ばせるような護身用のナイフが収まっていた。

 こんな死角にまで、武器が仕込まれている。

 この身体の持ち主が、どれほど過酷で、常に命のやり取りが隣り合わせにある世界で生きてきたのかを無言で物語っていた。


 衣服も、革のブーツも、何から何まで泥と返り血にまみれていた。

 泥で汚れた指を額に当て、額に張り付いていた髪をぐしゃりとかきあげる。

 汗と泥、そして先ほどの怪物の飛沫でバサバサに固まり、ひどくごわついていた。首の後ろに手をやると、細い革紐で一つに束ねられている。だが、それほど長くはない。首筋を少し覆う程度の短さだった。

 指先が触れる頭皮の輪郭も、髪の硬さも、自分の記憶にあるものとはどこか違っていた。


 ぐぅ、と腹の底が鈍く鳴った。

 胃の中のものをすべて吐き出した後の内臓が、強烈なエネルギー不足を訴えかけている。

 革袋の中から、先ほど見つけた小袋を取り出し、中から黒ずんだ干し肉の塊をひとつ引き抜いた。


 木片のようにカチカチに乾燥した肉片。鼻を近づけると、強い塩の香りと燻煙(くんえん)、そして得体の知れない獣の脂の匂いがツンと鼻を突く。

 それを口に咥え、思い切りかじりついた。


「っ……かた……」


 前歯では到底噛みちぎれそうになかった。

 奥歯の隙間に押し込み、ギリギリと音を立てながら、すりつぶすように強く噛みしめる。

 なんの獣の肉だろうか。牛でも豚でも鶏でもない。野生の獣特有の強い臭みと、舌を刺すような塩辛さが口いっぱいに広がる。現代の柔らかな食品に慣れきった顎の筋肉が痛んだ。

 それでも、必死になって咀嚼(そしゃく)を続けた。

 唾液が滲み出し、時間をかけて噛み砕いていくうちに、カチカチだった繊維が次第にほぐれ、凝縮されていた濃厚な脂と肉の味が滲み出てくる。


 十分に柔らかくなった塊を、喉を鳴らして胃袋へと飲み込んだ。

 硬い肉塊が食道を通り、胃の底に落ちる。

 すると不思議なことに、冷え切っていた胃の腑から、じんわりと小さな熱が生まれ、それが血管を通じて身体の末端へと広がっていくような感覚があった。内臓が活力を取り戻し、だんだんと身体の芯が熱くなっていく。

 生きるための燃料を、泥臭く補給した瞬間だった。


 残りの干し肉を袋に戻し、革袋と腰袋の口をぎゅっと閉じた。

 そして、二つの袋を木の洞の一番奥、狭い窪みへと押し込んだ。自分が手前に座り込めば、外から荷物が見えることも、奪われることもない。


 深く腰を落とし、体育座りのように両膝を抱え込んだ。

 そして、肩から外した鞘入りの鉄剣を、両腕でしっかりと胸に抱き抱える。

 冷たい鉄と硬い革の感触。命を奪った忌まわしい凶器でありながら、今の自分にとっては、この狂気の闇から身を守る唯一の拠り所だった。


 ざわざわ、と木々の梢(こずえ)が冷たい風に揺れる。

 広場を見下ろす木の洞の外は、いつの間にか一筋の残光すら失われ、完全な夜に覆い尽くされていた。


 月明かりすら届かない、圧倒的な暗黒。

 指先すら見えない闇の中で、剣を抱きしめたまま、ただ一人、震えながら息を潜めた。



(続く)

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