第二話:引き抜いた鉄刃と、渇いた喉(中編)
耳を塞ぎたくなるようなその音に鳥肌が立ち、胃の腑が再び痙攣する。
だが、怪物は仰向けになった。胸から突き出た鉄の柄が、斜め上を向いて天を指している。
荒い息を吐きながら、剣の柄に両手を伸ばした。
柄に巻きつけられた革紐は、先ほどの戦いで飛び散った怪物の返り血と、自分自身の脂汗でねっとりと濡れ、不気味に滑った。
滑り落ちないよう、指の関節が白くなるほど強く握りしめる。
「ふーっ……ふーっ……!」
息を整え、足を踏ん張り、腰を落とす。
そして、一気に腕に力を込めて、真上へと引き抜こうとした。
「ん、ぐぅぅぅっ……!?」
抜けない。
まるで、硬化したゴムか硬い木の幹に楔を打ち込んだかのように、切っ先はびくともしなかった。
刃が怪物の胸骨と肋骨の隙間に強烈に挟み込まれ、さらにその奥、背骨の脇の筋肉にまで深く食い込んでいるのだ。肉が刃に吸い付き、骨が鋼を噛んで離さない。
「うそだろ……っ、抜けろよ……抜けろ!」
必死になって両腕を引く。
だが、力を込めて引っ張れば引っ張るほど、剣と一緒に怪物の死体そのものが泥から持ち上がり、ぶらりと浮き上がるだけだった。
傷口の裂け目からは、ジュクッ、ジュクッと泡立った赤黒い血が新たな気泡を吹きながら滲み出し、服を汚していく。
ゲームやアニメのように、刺さった刃が滑らかに抜けることなどあり得ない。
生き物の肉体は、異物を強固に締めつけ、刃物を骨ごと抱え込んで離さないのだという無慈悲な物理の現実が、そこにあった。
すぅ、と背後から冷たい風が吹き込んできた。
洞窟の入口から流れ込んできた外気だった。湿り気を帯びた木々と土の冷たい匂いが、淀んだ血と吐瀉物の熱っぽい悪臭をわずかに散らしていく。
恐怖と焦りでびっしょりと汗ばんでいた首筋や背中を、その冷気が容赦なく撫で上げ、肌を粟立たせた。
――このままじゃ、駄目だ。
いつまでもここで手間取っていれば、血の匂いを嗅ぎつけた別の何かがやってくる。
激しく乱れる息を整えながら、怪物の胸元を見つめた。
刃を引き抜くには、手だけの力では足りない。足で固定し、全身の体重をかけるしかなかった。だがそれは、自分が殺めたばかりの死体を、土足で踏みつけることを意味していた。
胸の奥が痛烈に軋む。
「ごめん……ごめんよ……」
震える唇から、誰に届くとも知れない掠れた謝罪がこぼれ落ちた。
躊躇う右足を上げ、怪物の鎖骨のあたり、傷口のすぐ脇に泥まみれの靴底をあてがった。
ぐにゅり、と硬い革越しに、冷えかけた肉の弾力と骨の感触が足裏へ伝わってくる。全身の毛穴が開くような嫌悪感に吐き気を催しながらも、奥歯が砕けんばかりに噛み締めた。
柄を握り直す。
両手の革紐を軋ませ、靴底で死体を強く踏みつけながら、背筋と腰のバネのすべてを使って一気に引き上げた。
唇を真一文字に結び、喉の奥から押し殺した呻きを絞り出す。
――ズチッ、ギチギチッ。
骨が鋼を擦る鈍い軋み音と、肉が裂ける不気味な音が響く。
そして、真空の栓が弾け飛ぶような湿った感触とともに、刃が一気に抜け出た。
その瞬間、傷口から行き場を失っていた赤黒い血が、ジュッと鈍い音を立てて噴き出した。
抜けた反動と、足元から伝わった勢いに身体が耐えきれず、そのまま後ろへとよろめいた。
べしゃり、と冷たい泥水の中に激しく尻餅をつく。
尾てい骨に鈍い痛みが走ったが、手の中には、確かに引き抜かれた血塗れの鉄剣が握られていた。
肩を激しく上下させながら、自分はその場に座り込んでいた。
胸を突くのは、助かったという安堵感などでは毛頭なかった。
奪ってしまった。
自分の都合で、生き延びたいというエゴだけで、目の前に転がるひとつの生命を、完全に終わらせてしまった。
自分にできることなど、もう何一つ残されていない。
ただ謝ることと――。
ふらつく手で地面を押し、膝立ちになって怪物の顔へと身を寄せた。
見開かれたまま、濁った黄色い瞳が、今も動かずに虚空を見つめている。
震える指先を伸ばし、その瞼の上にそっと触れた。
乾きかけた冷たい皮膚のざらつきと、眼球の丸みが指の腹に伝わる。
そのまま、ゆっくりと下へ撫で下ろした。
怪物の目が、静かに閉じられた。
すぅ、と。
再び、背後から冷たい風が吹き抜けていった。
洞窟の奥へと吸い込まれていく風が、洞内を満たす静寂をかすかに揺らす。
力なく息を吐き出すと、壁に手をつき、軋む両膝に力を込めてよろよろと立ち上がった。
手にした剣の刃先からは、どす黒い血が滴り落ちて地面を汚している。服の裾で刃を拭うべきか迷ったが、もはや自分の服も血と泥で汚れきっていた。
そのまま、腰に抱えていた革巻きの鞘へ、ゆっくりと刃を滑り込ませた。
シュルリ、と乾いた摩擦音を立てて、鉄刃が鞘に収まる。
カチリと金具が噛み合う小さな音が、異様に重く響いた。
鞘に取り付けられていた太い革紐を掴み、斜めに肩へと掛ける。
背中に回った鞘の重みが、ずっしりと骨身に染み込んできた。人を殺した重みそのものが、背中に張り付いたようだった。
またひとつ、冷たい風が背中を抜けていく。
薄暗い洞窟の出口の向こうには、見たこともない鬱蒼とした森の緑が、ざわめきを立てて揺れていた。
――ここを出なきゃ。
――早く、一刻も早く、ここから離れたい。
その思いが、熱を帯びた焦燥となって胸を突き動かした。
背後には、自分が命を奪った怪物の冷えゆく死体がある。目を閉じてやったとはいえ、その存在そのものが放つ禍々しさと、鼻をつく生臭い血の臭気が、洞窟の湿った空気に溶け込んで肌にまとわりついてくるようだった。
振り返りたくない。もう二度と、あの緑色の皮膚も見たくない。
もし今、死んだはずのあいつが音もなく起き上がってきたら。もし、この悪臭を嗅ぎつけた仲間が洞窟の奥から現れたら――。
妄想めいた恐怖に背中を押され、もつれる両足を無理やり前へと繰り出した。
つま先が泥を蹴り、小石を跳ね上げる。
走ろうとしても、全身に鉛を流し込まれたように足が重く、ぎこちない早足にしかならない。肩に掛けた重い革袋と、背中の鞘が走るたびに激しく跳ねて腰骨を強打し、そのたびに鈍い痛みが走る。
それでも洞窟の壁に肩を擦りつけ、縋るようにして、前方の光だけを目指して出口へと急いだ。
数歩、十数歩。
岩肌の切れ目を抜けた瞬間、洞窟の冷たく澱んだ空気から解き放たれ、濃密な外気が真正面から顔面を打った。
「っ……あ……」
思わず足が止まり、息を呑んだ。
目の前に広がっていたのは、言葉を失うほどの圧倒的な原生林だった。
日本で目にしてきたような、人の手で管理された公園や里山の雑木林とは根本から異質だった。
見上げるほどに太くねじ曲がった巨木が、幾重にも重なり合って空を覆い尽くしている。太古から一度も刃を入れられたことのないような樹皮には、びっしりと分厚い苔や蔦が絡みつき、地面には人の背丈ほどもある奇妙な形のシダ植物が、青黒い葉を狂い咲きのように広げていた。
湿った土と、腐りかけた落ち葉、濃厚な青臭い樹液の匂いが鼻腔を埋め尽くす。
どこまでも、どこまでも緑が連なり、人工物――電柱も、ガードレールも、アスファルトの欠片すら何ひとつ存在しない。
完全に、見知らぬ世界だった。
夢でも見間違いでもない。自分は本当に、現代日本の日常から切り離され、途方もない野生の真っ只中に放り出されたのだという現実が、冷徹な暴力となって叩きつけられる。
逃げ出そうにも、足元は生い茂る藪と、地表を這う太い木の根に阻まれていた。
途方に暮れかけたその時、足元の茂みの切れ目に、わずかな隙間があることに気づいた。
草が不自然に踏み倒され、湿った黒土が露出した、人ひとり分の幅もない細い筋。
道と呼ぶにはあまりに頼りない、微かに踏み固められた獣道だった。
それが森の奥へと、蛇のようにうねりながら続いている。
それが何の獣が通る道なのか、あるいは先ほどの怪物の仲間が踏み固めた痕跡なのか、自分には判断がつかない。
だが、刃物のように尖った枝や棘のある藪をかき分けて進む気力も体力も、今の自分には残されていなかった。
ただ、あの血生臭い洞窟から少しでも遠くへ離れたい。その本能だけに従って、自分はその細い獣道へと足を踏み入れた。
(後編に続く)
お読みいただきありがとうございます!
少しでも「面白い」「続きが気になる」と思っていただけたら、
下部にある【ブックマーク登録】や【いいね】、ページ下部の【★★★★★】評価をいただけると、執筆の大きな励みになります!
次回もよろしくお願いします。




