↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
泥濘の双影  作者: 須藤
3/12

第二話:引き抜いた鉄刃と、渇いた喉(前編)

 胃の中のものをすべてぶちまけても、吐き気は収まらなかった。

 すでに吐き出すものなど何一つ残っていないのに、喉の奥と横隔膜(おうかくまく)が勝手に跳ね上がり、ひくひくと無意味な痙攣(けいれん)を繰り返す。胃液と胆汁(たんじゅう)に焼かれた食道が、まるで熱湯を呑み込まされたかのように熱く、ヒリヒリと痛んだ。


「おえっ……げほっ、ごほっ……」


 涙と鼻水が混ざり合って顎を伝い、泥まみれの地面にぽたぽたと落ちる。

 口の中には、耐えがたい苦味と酸味、そして鉄を舐めたような生温かい血の臭いがこびりついて離れなかった。舌を動かすたびにその臭気が蘇り、そのたびに胃壁が引き絞られるように痛む。


 だが、いくらえずいても、乾いた空気と微かな胃液が泡立って口から溢れるだけだった。

 どれほどそうして蹲(うずくま)っていただろうか。

 やがて、狂ったように早鐘を打っていた心臓の鼓動が、少しずつ、鉛のように重い拍動へと落ち着きを取り戻していった。


 両手をついていた冷たい岩肌の感触が、ようやく皮膚を通じて脳に届く。

 泥と吐瀉物(としゃぶつ)がこびりついた手の甲で、荒っぽく口元と涙を拭った。指先に付着していた化け物の乾きかけた血が唇を掠(かす)め、ぞっとするような悪寒が背筋を駆け上がったが、それを気にする余裕すら今の自分にはなかった。


 ――落ち着け。息を吸え。

 心の中で自分に言い聞かせる。


 浅く、途切れがちに息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。

 肺に満ちる空気はひどく湿り気を帯びていて、カビと腐葉土(ふようど)、そしてあの怪物が撒き散らした体臭と血の臭いが混じり合っていた。


 両膝に力を込め、壁に手を預けながら、ゆっくりと上体を起こす。

 全身の筋肉が強張(こわば)り、まるで重い荷物を背負い続けたあとのように関節がきしんだ。後頭部から頭の奥がズキズキと脈打つように痛む。


 改めて、薄暗い洞窟の中を見回した。

 ごつごつと尖った岩肌が歪な天井を作り、ところどころからぽたぽたと水滴が滴り落ちて、静かな空間に規則正しい音を響かせている。

 外からの光がわずかに差し込む開口部――そこへ向かって逃げようとしていた痕跡が、泥を削り取った足跡として生々しく残っていた。


 そして視線を落とすと、自分が最初に目を覚ました場所の近くに、いくつかの物が転がっているのが目に入った。


 分厚く硬い革で作られた、使い込まれた肩掛けの革袋。

 ベルトに通すための金具がついた、小ぶりな革の腰袋。

 そして、先ほど自分が無我夢中で引き抜いたはずの、刃を失って空になった革巻きの鞘(さや)。


 どれも埃と泥をかぶっていたが、明らかに人工物であり、誰かが使っていた道具だった。

 ――この身体の、持ち主のものだ。


 力が入らない足を引きずりながら、よろよろとそこへ近づいた。

 一歩踏み出すごとに膝の関節が頼りなく揺れ、尖った小石がブーツの底を通して足裏を痛めつける。クッション性の高いスニーカーとはまるで違う、硬く無骨な履物だった。


 しゃがみ込み、震える指先でそれらを拾い上げる。

 革袋はずっしりと重かった。中には何かが詰まっているようだが、今は中身を一つひとつ検分している余裕はない。腰袋と鞘を抱え、革袋の太いストラップを肩に引っ掛ける。

 それだけの動作で、息が上がった。


 荷物を手にし、ふと、背後を振り返る。


 そこには、先ほど自分が命を奪った化け物がいた。


 思わず息を呑み、足が竦(すく)む。

 怪物は――完全に死んでいるはずなのに、地面に横たわってはいなかった。


 異様な格好だった。

 緑色の小柄な肉体は、両膝を地面につけ、だらりと両腕を垂らしたまま、前のめりに深くうつむいていた。

 その胸の中央に、無骨な鉄の剣が深々と突き刺さっている。切っ先が胴体を貫き、背後の岩肌か地面の硬い土にまで達しているのか、斜めに突き立った剣そのものが突っかい棒となって、死体の崩落を支えていたのだ。


 まるで、自らに突き刺さった刃にすがりついて祈っているかのような、歪で不気味な姿勢だった。


 薄暗がりの中、怪物の顔が影になっていた。

 恐る恐る距離を詰め、覗き込む。


 ――ひっ、と喉が鳴った。


 見開かれたままの黄色い瞳。

 濁りきったその瞳孔(どうこう)は光を失い、焦点も合わないまま、自らの胸元――自分が突き立てた刃の根元をじっと凝視(ぎょうし)していた。

 裂けた口からは、赤黒い泡だった血が乾きかけて固まり、緑色の皮膚にどす黒い筋を作っている。

 さっきまで自分を殺そうと飛びかかってきた生々しい殺意は霧散(むさん)し、そこにあるのは、急速に体温を失っていく冷たい『肉の塊』だった。


 目を背けたい。今すぐにでもこの場から逃げ出したい。

 だが、逃げるわけにはいかなかった。


 視線は、怪物の胸に突き刺さったままの鉄剣に釘付けになっていた。


 あの剣がなければ、自分はこの暗闇の中で完全に無防備になる。

 もし洞窟の外に、あるいはこの奥に、こいつの仲間や別の怪物がいたら?

 武器を持たない自分が襲われたら、今度こそなす術もなく引き裂かれ、食い殺されるだけだ。


 生き延びるためには、あの剣を取り戻さなければならない。

 頭では分かっているのに、足がすくんで動かなかった。死体に触れなければならないという生理的な嫌悪感と、先ほどの殺傷の感触が脳裏をよぎり、指先が強張る。


 それでも、奥歯をギリリと噛み締めた。

 死にたくない。その一心で、震える足を一歩、また一歩と前へ踏み出す。


 怪物のすぐ目の前に立ち、片膝をついた。

 生臭い血と、内臓が破れたような悪臭が立ち込めて、鼻腔(びくう)の奥を容赦なく刺激する。吐きそうになるのを必死で呑み込んだ。


 この突っかい棒のようになっている状態では、剣をまともに引っ張ることすらできない。

 まずは、この怪物を地面に転がさなければならなかった。


 躊躇しながらも、泥にまみれた右手を伸ばし、怪物の細く筋張った肩に触れた。


 ――冷たい。

 だが、骨の奥にはまだ、生きていた頃の微かな熱の残滓(ざんし)が閉じ込められているような、ぞっとする生々しさがあった。濡れた爬虫類のような、ざらついた皮膚の感触が掌に直接伝わってくる。


「う……っ、く……」


 声を漏らしながら、力を込めて肩を突き倒した。

 ぐにゃり、と首と手足が無抵抗に揺れ、怪物の体が重い湿った音を立てて泥の上へと仰向けに転がった。


 その瞬間、胴体に刺さっていた刃がねじれ、

 ――ぐずっ、ぎちっ。

 と、肉と骨が擦れ合う鈍い異音が響いた。


(中編に続く)

お読みいただきありがとうございます!


少しでも「面白い」「続きが気になる」と思っていただけたら、

下部にある【ブックマーク登録】や【いいね】、ページ下部の【★★★★★】評価をいただけると、執筆の大きな励みになります!


次回もよろしくお願いします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。