第一話:奪った命と、汚れた両手(後編)
――殺される。
その手が、偶然にも冷たく硬い感触に触れる。
さっき傍らに転がっていた、あの剣だった。
考える余裕などなかった。藁にもすがる思いでその柄を両手で掴み、がたがたと震えながら切っ先を突き出す。
「く、来るな……っ! こっちに来るなよぉ……っ!」
涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃに歪ませ、上ずった裏声で叫ぶ。
威嚇のつもりだったが、喉から絞り出されたのは、ただの惨めな哀願だった。
切っ先の向こうに見える怪物の姿は、どこまでもアンバランスで不気味だった。痩せ細った首や手足に対して、下腹だけが異様にぽっこりと膨らんでいる。腰には血と汚物で黒ずんだ獣の皮を巻き、その右手には――木の枝に鋭利な割れ石を蔓で括りつけただけの、粗末な石斧が握られていた。
コンビニに行くことすら億劫で、他人の視線から逃げて部屋に閉じこもっていただけの自分が、なぜこんな場所で、化け物相手に震えながら剣を握りしめているのか。
「ギャッ!」
こちらの怯えきった姿を見て完全に侮ったのか、その怪物は嘲笑うような奇声を上げ、脂汗を撒き散らしながら跳びかかってきた。
鼻が曲がるほどの強烈な体臭と熱気が、真正面から叩きつけられる。
反射的に身体をのけぞらせる。
頬のすぐ横を石斧の刃先が掠め、風を切る音が耳元で鳴った。そのまま背後の岩肌を激しく打ち据え、ガツンと鈍い火花が散る。
――無理だ。戦うなんて絶対にできない。
あまりの恐怖と間近で浴びた殺意に、わずかに残っていた気力すら完全に消し飛んだ。
怖い。逃げたい。部屋に閉じこもって、布団を被っていたい。
激しい動悸で胸が張り裂けそうになり、息が上手く吸えない。
剣を両手で握りしめたまま、立ち上がることすらできず、化け物に背を向けて四つん這いになった。ごつごつと隆起した岩肌や泥、水たまりに膝を打ちつけ、尖った小石が薄い布越しに膝の皿へめり込むのも構わず、微かに光が差し込む洞窟の出口へ向かって、必死の思いで這うように逃げ出す。
「ギヒヒッ!」
背後から嘲笑と、肉を断ち切ろうとする追撃の足音が迫る。
終わった、追いつかれる――そう思った瞬間だった。
ぐちゃり、と濡れた苔を踏み抜く鈍い音が響き、背後で足音が乱れた。勢い余って踏み込んできた小鬼が足元を滑らせ、ほんの一瞬、その体勢が前方に大きく崩れる。
咄嗟に振り返った自分のすぐ目の前に、無防備な背中と首元が投げ出されていた。
隙だらけだった。素人の目から見ても、今なら刺せる。
手にした剣の柄を両手で握り直す。指先は氷のように冷たくなっていた。
――本当に殺すのか?
部屋に閉じこもっていた頃の記憶がフラッシュバックする。虫一匹まともに潰せず、ティッシュでそっと包んで外に逃がしていたような自分が、命を奪う。
どんなに醜くても、こいつは動いて、息をして、痛みに顔を歪める生き物だ。それを、この手で?
「ガアッ!」
化け物が体勢を立て直そうと顔を上げた。その目が、明確に自分の喉元を捉えている。
迷っている猶予はなかった。やらなければ、こいつの石斧が自分の頭蓋を叩き割る。
「う、あぁぁぁぁっ!」
喉が千切れるほどの絶叫が口を衝いて出た。
目をつぶりそうになるのを必死で耐え、体重のすべてを乗せて切っ先を突き出す。
鈍い抵抗感。
まるで厚手の生肉に硬い棒を無理やり押し込むような、ぬちゃりとした生々しい感触が、剣の柄を通じて両腕、そして骨にまで伝わってきた。
「ギャ、ギ……ッ!?」
緑色の胸に、刃が半ばまで深々と突き刺さっていた。
至近距離で目が合った。苦悶に歪む表情。瞳孔が開きかけた黄色い瞳。口からゴボリと赤黒い泡が溢れ、その細い両手が、刃を引き抜こうと死に物狂いでしがみついてくる。
温かい。熱い。
こいつの体温と、傷口から噴き出した生温かい液体が、剣を握る自分の手に容赦なく降りかかる。
「ひっ……!」
反射的に剣を引き抜こうとしたが、骨に引っかかっているのかびくともしない。化け物は喉をヒューヒューと鳴らしながら、痙攣し、やがてその小さな手から力が抜けてだらりと垂れ下がった。
どさりと、地面に崩れ落ちる。
動かない。胸の上下も止まった。
静まり返る洞窟の中に、ただ自分の荒い呼吸音だけが響いていた。
手が、指が、全身が狂ったようにガタガタと震えている。
視線を落とすと、自分の両手はどす黒い血液でべっとりと染まっていた。鼻を覆うのは、強烈な血の匂い。生きているものを、自分の手でただの物に変えてしまったという、取り返しのつかない絶対的な事実。
その感触が、匂いが、脳の芯を直接引っ掻き回した。
胃の底から猛烈な吐き気がせり上がり、たまらずその場に崩れ落ちた。
両手を地面につき、激しく嘔吐する。
胃液と苦い胆汁が、喉を焼けつくように通り抜けて岩肌にぶちまけられた。それでも吐き気は治まらず、空っぽの胃を激しく痙攣させながら、何度もえずき続けた。
あふれ出た涙で視界が歪み、伏せた視線の先では、足元の濁った水たまりだけが揺れていた。
これが、命を奪うということなのか。
経験値を稼ぐとか、モンスターを倒すとか、そんな軽い言葉で済むようなものじゃない。
たった一匹の、子供ほどの大きさしかない化け物を殺しただけだ。
それなのに自分は、力が入らない膝を起こすことすらできず、暗い洞窟の床で泥と吐瀉物にまみれながら、いつまでも涙を流して震え続けていた。
(第二話に続く)
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