逮捕
必死になって走る。
今までこれほど必死になって走ったことなんてないくらいだ。
なるべく人のいないところを探し、走っていると見知らぬ場所に出た。
陰鬱な雰囲気の場所だ。昼間だというのに酒を煽りボロボロのカードでゲームをしている小汚い男たち、ふしだらな格好で男の情欲を煽る娼婦もいる。香水の匂いに混じってなにやら汚物の匂いが鼻を突いた。
ここは貧民街か。
王都は広い。広ければ広いほどそこにできる影も大きくなる。
こんなところは普段の僕なら絶対に来る場所ではないのに、だが今は身を隠すにはちょうど良かった。
——クソ、みんな揃って人を犯罪者みたいに……。
家族も職場の人たちも僕を信じてくれない。
ぐしゃりと髪を掴み、項垂れる。
僕はアンヌを拉致なんてしていない。そんなことをするわけがない。なんで誰も信じてくれないんだよ。
「……お前、レオンハルトか?」
「!?」
くそ、見つかったか。
逃げようとするが目の前の人間がボロの外套のフードを取る。
「……俺だ、カルロだ」
そこにいたのはカルロだった。
僕と違って、脂ぎった顔に脂肪をまとった鈍重な男だ。
双子の妹のアンヌとは似ても似つかない。着ている服や顔もところどころ汚れている。今はまるで浮浪者のようなありさまだった。家を無くしたのであればそれも当然だ。今は一体どこで寝泊まりしているのだろうか。
だが、そんなことよりもなにかアンヌについて知っていることはないかとを尋ねようとしたが、カルロは僕にいきなり怒鳴ってきた。
「お前がっ! お前がアンヌを誘拐したせいで俺は……俺はっ!!」
「ち、違う。僕はアンヌをさらってなんていないっ」
こいつもそう思っているのか。
婚約していたというのにわざわざ拉致なんてするわけないだろう。
そもそも疑われたのはお前が金に困ってアンヌの私物を売ってきたことが原因だ。
「嘘をつけっ!! どこに隠したっ!? 俺の縁談はどうなったんだっ!! 女はどこだっ!! 金をよこせっ!! 俺の家を返せっ!! ケイヤク違反のイシャリョウを請求するっ!!」
カルロは今まで使ったことのないような言葉を使う。契約と慰謝料なんて難しい言葉を理解していたことに驚いた。
興奮状態で僕を指さし、血走った目をむける。
だが、自分の身に起きたすべての不幸を僕の所為にする発言に、ふつふつと僕の中の感情が煮えたぎる。
「ふ、ふざけるなっ!」
僕はカルロの顔を殴りつけた。
殴られた勢いでカルロは仰け反る。
「ぶ……お前の家に行ったらお前の父親に追い返されたんだ!!」
「父が?」
もしかして父上は僕を悪評から守ってくれたんだろうか。
世間では僕は誘拐犯になっている。カルロのように僕を害する人間だっていた可能性がある。もっと早く気が付けばよかった。
カルロが掴みかかってきて、揉み合いになる。
僕は喧嘩なんてしたことがない。
だが、それはカルロもだ。
「あっ……」
誰かの声とともにその場に赤い鮮血が飛び散った。
女性の悲鳴が貧民街に響き渡った。
◆
「……ああ、見たよ。ここじゃ喧嘩は珍しくないが、あれはさすがにね」
そう語るのは事件を目撃した男性である。
現場はあまり治安のいい場所とは言えない貧民街である。
そこで起きたとある事件は貧民街であっても人の多い大通りで起きた喧嘩だった。
ここでは喧嘩などは日常茶飯事であり、二人の男の喧嘩などはさほど珍しいものではなかった。
肥満体の男と優男の喧嘩だった。
お互い喧嘩に慣れていないのは傍から見て明らかだった。
喧嘩に慣れていないと、どうなるか。
それは手加減というものができないということだ。しないのではなくできない。
ましてや貴族なんてものは痛みなど知らずに育ってきた者がほとんどだ。そういう者はなおさら手加減など出来ないだろう。だが、舞台演劇のように拳の一撃で相手が気絶し決着がつくなんてこともない。
喧嘩している当人たちも自分を守るために自身の拳が外傷を負っても気が付かないといったことが起きる。
視野が狭くなり周りのギャラリーたちのことも忘れる。
そして、周りの環境などにも気が回らなくなる。
突き飛ばされたときに勢いが加われば、転ぶ程度ではすまず、身体を強く打つ。
そこに硬い石などがあり、そこに頭を強く打ち付ければどうなるか。
子供でも分かる簡単な答えだ。
「……そのまま男が動かなくなって、もう一人はすぐに逃げたよ。大通りでの喧嘩だったから見てるやつは他にもいるぞ」
事件を目撃していた男が視線をやる先には道が続いているだけだった。
事件を捜査している捜査局員はその道の続く先にいる犯人の足跡を探った。
捜査局は今回の事件を殺人事件として捜査を開始した。
被害者の名前はカルロ・ユグノー。頭部外傷による死亡だった。
被疑者の名前は——レオンハルト・ウォルターズ。
連日、貴族令嬢誘拐の犯人として名前が有名になった男性だった。
◆『なぜレオナールを頼らなかったのか』
女がいる。
自身をミズ・フューリーと名乗ったあの女。マスカレードマスクを被った女が、僕——レオナールの視界に入る。
「はあ、はあ、はあ……また……なんで……どうして、あの女がいるんだ」
あの女とはいなくなったアンジーを探していた中で知り合った。
その旅の途中に立ち寄った町であの女が声をかけてきた。最初は娼婦かと思ったが、立ち振る舞いから貴族の佇まいを感じた。大方、お忍びで遊んでいる貴族令嬢だろう。
『貴方を気に入りました。この後どうですか?』
そう言ってレースの手袋を纏った手が僕の手に触れた。
今日1日、情夫になれということだろうか。
そんなことを言われたが僕にはアンジーがいる。
こいつも、結局はそのあたりの女と同じかと内心溜息を吐いた。
『僕には心に決めた女性がいます! やめてくださいっ! 不愉快だっ!』
はっきりとそう答えて断った。
『……照れなくてもよろしいのに』
女は笑みを浮かべた。
何を自惚れているんだか。
だが、それから行く先々であの女を見かけるようになった。
何時しか旅の目的はアンジーを探すことではなく、あの女から逃げることに変わっていた。
今も逃げた先で女は笑みを浮かべている。
ふざけるなよ。こっちは全力で走っているのにあの女は息が切れた様子もない。
後をつけるのではなく、僕の行った先に必ずあの女がいる。
宿泊先の隣にはあの女がいた。
食事の席の隣はいつもあの女が先回りをしている。
自分の思考を読まれているようで気味が悪かった。
僕に何かしてくるわけでもない。僕に指一本触れてくるわけでもない。
ただ隣の席に座り、こちらを見てくるだけだ。
あの仮面の所為で表情が読めない。口元から笑っていると分かるが不気味なのは変わりない。
宿屋で一人机に突っ伏す。こんなことをしている場合じゃないのに。
あの女こんなことをして何が楽しいんだ。
「……ふふ」
今もあの女の楽しそうな笑い声が耳元で聞こえてくる。
いや、今確かに——
「……え?」
口元に布を当てられる。
そこからの記憶はなかった。
目が覚めると自分が宿泊していたところとは明らかに違う場所にいた。
起き上がり、あたりを見渡す。
石造りの部屋は広くはない。数歩も歩けば壁に手がついてしまう。
ベッドはある。机もある。木の箱のようなものはもしかして便器のつもりか?
明かりは蝋燭だけで頼りない炎がゆらゆらと揺れていた。
この部屋には窓もない。だから時間も分からない。どれくらい眠っていた、いや、眠らされていたのだろうか。
この部屋の唯一の出入り口である扉だけがこの空間の中で歪だった。
大きな鋼鉄製の扉。まるで銀行にある大きな金庫のような扉だ。その扉の小窓だけが唯一外界とつながっている。
「……なんなんだ、ここは……」
まさか、閉じ込められたのか。
この部屋はまるで牢獄のようだった。
あの女か……ミズ・フューリーと名乗ったあの女が……いくら僕を気に入ったからと言ってここまでするなんて。
「くそっ!! なんでこんなところに!!」
早くアンジーを探さなければならないというのに。
ガタン——
小窓から何かが放り込まれた。
パンと水、干し肉だった。
「おい! そこにいるんだろう! ここから出せっ!!」
ただ鋼鉄の扉を叩く音が部屋に響くだけだった。
まあいい。いずれあの女がここから僕を連れ出すだろう。その時まで耐え忍んでやる。
だが、蝋燭の火が消える。
唯一の光源が消えたことにより、この空間は闇に包まれる。
完全な暗闇だ。狭い部屋がさらに狭くなったように感じる。
「……おい。いるんだろ?」
おそるおそる扉の向こうに声をかける。
だが、なにも返事はない。
時間だけが過ぎていく。
だが、どれだけ経過したかもわからない。
唯一の手掛かりは小窓から与えられる食事だった。
それでも名状し難い不安が募る。
僕にできるのはただここでいつ運ばれてくるか分からない食事に縋ることだけだった。
……
………
…………
一体どれだけの時間が経過したのだろう。
運ばれてきた食事の回数は、もう何度目なのだろうか。最初こそ数えていたがもう分からなくなった。
顔に触れるとひげが生えている。今まで伸ばしたことがないくらいの長さになっていた。間違いなく1週間以上は経過していた。部屋の中の自分の排泄物の匂いが肺を満たす。この暗闇の中で汚物の入った桶を倒してしまった。いつまでたってもこの匂いにはなれない。
「…せ……か……」
口が渇く。
水は気まぐれに与えられることが分かると節約して飲んでいたが、この暗闇の中で何度もその貴重な水をこぼしてしまった。
普通に考えれば食事が運ばれてくるのは1日に3回。
そこから時間を割り出せるかと思ったが、運ばれてくる時間に規則性を見出せなかった。
もう何日も誰とも話していない。声がかすれてはっきりと発音ができなくなっていた。動き回るほどの広さもない部屋のため体力も相当落ちているだろう。
「もう出してくれ……いや、出してください。貴方の言うとおりにするから……フューリー……」
食事を入れる小窓から話す。
「……貴方の気持ちはもう十分伝わった。僕を自分のものにしたかったんだろう、言うことを聞くからさ」
思ってもいないことを言う。だが、もうここから出る手段はこれしかなかった。
無論、この言葉は嘘だ。機を見て必ず逃げ出してやる。
「愛してる。フューリー……!?」
その言葉に反応したのか小窓が動き、開いた。明かりがある。
……焦るな。ここで焦ったら、終わりだ。
『……愛してる? 本当ですか?』
「——っ——あ、ああ! もちろんだっ!!」
久しぶりに聞いた自分以外の声。
あのイカレた女の声だとしてもなんだか心地が良い。
『私を愛してるんですって——アンジーさん』
「…………え?」
今、この女はなんて言った。
「あ、アンジー? アンジーがそこにいるのか!? 僕だ、レオナールだ」
くそ、口が渇いて大きな声が出せない。
『……そうですか。では、私は失礼します。ここにいると嫌な臭いで気分が悪くなりますので……』
ああ、行ってしまう。聞きたいこと、伝えたいことがたくさんあるのに。
この女は先ほどの言葉をアンジーに聞かせたいがためにここに彼女を連れてきたのか?
「まて、待ってくれ……アンジー」
誤解だ、僕が本当に愛しているのは君だけなんだ。
僕が最後に見たのは愛しい女性の背中だけだった。
その背中をも遮るようにあの女の仮面が覗く。その仮面の奥の目はまるで笑っているようだった。
『フフフ……では、御機嫌よう。ああ、別に私は愛してくれなんて言いませんよ。私は見たかっただけですので』
「……アンジー……」
『……やはり恋愛劇は悲劇的に終わるのが美しいですよね——最高の悲劇をありがとうございました』
「!?」
その言葉を最後に小窓が閉じる。
「うおおおおおおおお!! 出せ! 出せ!! だしてくれぇえええ!!」
乾いた喉が破れんばかりに叫ぶ。
だが目の前の扉の小窓が開くことは二度となかった。
その後、彼を見たものは誰もいなかった。
◆
レオンハルト・ウォルターズは数日後にカルロ・ユグノー殺人容疑で逮捕された。
「……ちがう、あれは正当防衛だ」
彼は正当防衛を主張したが、先に手を出したのはレオンハルトであり、カルロを突き飛ばし、殺害したという点は紛れもない事実だった。それに救助もせず逃亡したという点で助ける意思すらなかったと判断された。
殺人ということで保釈は認められない。
家族ももう手を差し伸べることはしなかった。ウォルターズ家の当主は家督を親戚縁者に譲り、妻とともにひっそりと姿を消した。
彼は牢屋で無実を訴え続けている。
貴族令嬢誘拐の被疑者でもあった彼の逮捕は新聞で大きく取り上げられ、広く知れ渡ることになる。
それは王都から遠く離れたナスターシャにも届いた。
「……ふうん。殺人でついに逮捕ね。おとなしくしていればよかったでしょうに。世間からは今まで以上にアンヌ嬢誘拐の犯人だって目を向けられるでしょうね」
ナスターシャの領主であるエリスは新聞を読みながら呟く。
「貴方はどう思う?」
新しくこの領主館で働くことになった赤毛の女性に尋ねた。
「……私にはアンヌ嬢のお気持ちは分かりかねます」
「ただ……」と言葉を続ける。
「アンヌ嬢は非常に安堵しておられるのではないでしょうか」
領主館で働く人たちにアンと呼ばれる赤毛の女性は答えた。
誤字脱字報告ありがとうございます。至らぬ点が多々ございますがこれからもよろしくお願いします。
もうちょっとだけ続きます。




