逃亡
逃げるための準備をしている間もあの男は部屋の前まで来た。
だが、逃げることを決意してからは息を殺し潜むことは無くなった。
あの男は扉の向こうで何か話しているが、こちらの動きも知ることはできない。そう思えば体は動いてくれた。
あの男が勤務中に外出し、銀行でお金を下ろすと周囲に悟られないように少しずつ物を集め、駅の手荷物預かり所に預ける。荷物を預けるときには名前を記帳するが、私は"アンジー"と言う偽名を使った。寝台列車の切符の購入も同じように使ったが、思い切って名前を変えるのもありかもしれない。
5日後、私は必要最低限の荷物を持って寮から逃げ出した。寮の人たちもここ最近しているようないつも通りの外出だと思っただろう。「気を付けてねー」と呑気にいつものように声をかけていた。私が出ていくとは夢にも思っていない様子だ。その言葉に私はバレていないと安堵する。
寮の部屋の机の上には手紙と退職届を置いてある。
それが私の答えだ。
二度とこんなところに戻ってくるものか。
寮を出てから馬車に乗って駅まで移動し、手荷物預かり所から荷物を受け取ると寝台列車に乗り込む。
少々値は張ったが、人目につかないためには個室の必要があった。何より、知らない人と一緒というのが嫌だった。旅の中で根掘り葉掘り事情を聴かれるのは避けたい。
乗り込んだ列車の1人用寝台個室に座り発車時刻を待つ。
部屋の窓を閉め、駅構内から室内が見えないようにした。暗くなった部屋にランプの明かりをつける。
持ってきた懐中時計の秒針がチクタクと刻む。
時計の長針が1分動くたびにもっと早く動けと祈る。1秒ですら長く感じてしまう。列車が動き出すまでの時間がものすごく長く感じる。
懐中時計を持っている手に力がこもる。
——ジリリリリリリ——!!
出発を告げるために鳴るベル。
そして、列車が動き出すのと同時に私は大きく息を吐いた。
ガタガタと荷物が揺れる中、私は立ち上がり窓を開ける。
王都を出ると王都の新たなシンボルとなっているこの国一番の大きな通信塔が徐々に徐々に小さくなる。
私の中にあるのは長年暮らした王都への哀愁の感情ではなく、「解放」されたという喜びだった。
王都から出られたということで少し余裕が出てきた。
寝台列車というものには初めて乗ったが、意外と快適だった。この列車には一流レストラン並みのメニューまであるが、私は部屋で車内販売のサンドウィッチを食べた。あのレストランもいつか機会があるものなら利用してみたいものだ。
約1日半を列車の中で過ごし、次は乗合馬車によりナスターシャを目指す。
ナスターシャへの道のりにはここ数年で途中まで鉄道が敷かれ、行き来の時間が短縮された。
だがそれでも田舎だ。まだまだ交通は不便で行きかう人はほとんどいない。終点駅で降りたのは私の他に数人だけだった。寂しい駅だが、私はそれを望んでここまで来たのだからありがたいと思える。
王都を出て1日以上経過したが今も私は部屋にいるように見えているはずだ。
あの男は間抜けにも誰もいない扉にノックをして話しかけているはずだ。
私はそう願っていた。
乗合馬車を下りると私はとうとうナスターシャにたどり着いた。
目の前に広がるのはナスターシャが誇る国で一番巨大な湖——ファナ湖。
地図では知っていたが、その湖の近くまで行くとまずその大きさに圧倒される。
大きな池というより内海みたいな湖だ。王都よりも大きなその湖には小さな島もあるので余計にそう見える。湖では遊覧船に乗ることができ、多くの魚も採れるともいう。周囲の空気は澄み切っており、空気がおいしかった。
私は宿屋を探して道を歩く。逃亡先として選んだがいきなり定住することは考えない。まずはこのあたりのことを知らなければならない。
湖の近くは雨水や流れた水で路面が削られ、段差ができやすくなるはずだがここは道はしっかりと舗装されており、足が滑らないようになっている。農耕馬などの家畜もいるが道は綺麗だった。
道案内の看板もしっかりと立っており、宿屋までの道のりはわかるようになっていた。
湖が集客の核となるスポットだ。その周囲にはいくつかの宿屋が点在していた。私はそのうちの1つに入る。
「すいません。3週間ほど滞在したいのですが……」
3週間と言うのは私の休みが終わる残りの期間だ。
「はい。いらっしゃいませ。お一人様ですか?」
「はい」
受付の人はお婆さんだった。
お婆さんはいかにも田舎な素朴な風体だ。宿屋はしっかりと綺麗にされており、ここに来るまでに宿泊した宿よりよほどいい印象だった。どうやら酒場が併設されている宿屋のようだ。
「お夕食と朝食はどうされますか? 泊まられる方はこちらで召し上がられる方がほとんどですが酒場と併設されており少々騒がしいかもしれません。お部屋で召し上がることもできますが」
「それでしたらお夕飯は部屋で頂きます。明日の朝食もお願いします」
なるべく人目につかないように部屋で食べることにした。
「かしこまりました。真心こもった美味しい料理と清潔なベッドは用意できますのでごゆっくりしていってくださいませ」
部屋に案内される。荷物はお婆さんが持つと言ってくれたが少し申し訳なさもあり、自分で持って部屋まで移動する。
鍵を渡され部屋に入る。少々薄暗い部屋だったが、窓を開けると明るくなりファナ湖が一望できる景色だった。
空の色が映った湖に、青々とした自然がとても美しかった。
「綺麗……」
「ここは夜も素敵ですよ。月が湖面に映ってとても幻想的な風景になります。私も好きなんです。お夕飯の時間は21時までとなっておりますのでお気を付けください」
「ご丁寧にありがとうございます」
失礼しますと宿屋のお婆さんは部屋を出ていく。接客もとても丁寧だった。少なくとも私が今まであった宿の人の中で一番好印象だった。
しばらく外を眺める。
やや高台にあるお屋敷がナスターシャの領主様のお屋敷なのだろう。
湖に浮かぶ遊覧船が湖を優雅に走っていた。
窓を開けたままベッドで横になる。
風に揺れる水の音が聞こえてくる。そこに人の声はほとんど聞こえてこない。
旅の疲れが出たのか私はそのまま眠ってしまった。
◆
夕飯の時間まで眠ってしまった。
ここまで熟睡できたのは本当に久しぶりだった。
私は食事を頼むために一階の酒場に降りた。
酒場には今日一日の疲れを癒すためか、多くの人でにぎわっていた。
「すいません。お食事をお願いします」
「はいよ」
受付のお婆さんとは違う宿屋の料理人に声をかける。少しだけ待つと部屋に料理が運ばれてきた。素朴な田舎の郷土料理と説明されたが十分においしそうだ。
「……美味しい」
食べ物を美味しいと感じるのはいつぶりだろうか。寮にいるときは買い物にも行けずパンがほとんどで、道中も燃料を入れるようにしか食べていなかった。味わうという食事の楽しみを感じたのも久しぶりだった。
「ありがとうございます。ご一緒にワインはいかがですか?」
料理を運んできたお婆さんにワインを勧められ頂くことにする。果実味とほど良いタンニンが楽しめるこのワインは、料理の旨味と非常によく合う。
「素晴らしいです」
「ごゆっくりどうぞ。何かありましたらお呼びください」
私の感想にお婆さんも満足したのか嬉しそうに部屋を後にした。
「……お酒、美味しかった……」
お酒も飲むのは久しぶりだった。せっかくならもうちょっとだけ飲みたい。
下の酒場に降りるとそこには多くの人に賑わっている。カウンター席が空いていたので私はそこに座らせてもらう。
「何かご希望は?」
「甘いものに合うものがあれば」
「かしこまりました」
ワインのおつまみとして出されたのはナッツキャラメルだった。香ばしく焦がしたキャラメルの風味と、黒コショウのピリッとした刺激がいい。
不意に視線を感じる。
女性が一人で酒場にいるのはやはり珍しいのだろう。私は一人で食事をすることが当たり前になっていたから自分の場違い感に遅れて気が付いた。
「お姉さん。一人かい?」
私に声をかけてきたのは一人の女性だった。
「あ、ごめんね。いきなり声かけられてびっくりしてただろ。このあたりで見たことない顔してたからさ。つい声をかけちゃって」
「いえ……」
私は無意識のうちに警戒してしまっていた。
人と話すときにこんな緊張を覚えなくなる日は来るのかと心配になる。
「旅行に来たの?」
「そう、ですね。しばらくここに滞在しようと思っています」
「そっか。私はここの領主館で働いているラリーっていうんだ。何かあったら声をかけてね。週末や休みにはここに飲みに来ていることが多いからさ」
「……ありがとうございます」
ラリーはニコッと笑うとそのまま自分の席へと戻った。どうやら友人と仕事帰りに寄ったらしい。押しつけがましいわけでもなく、さっぱりとした女性だった。
私は一人で部屋に戻った。
部屋に戻ってくると窓を開けて外の湖を見る。
静かな夜だ。
——本当にきれい……。
昼間とは違った景色。
昼間は明るい絵画のような景色だったが、今は幻想的な風景となっていた。明かりが必要最低限しかないからか、王都よりも星がはっきりと見える。
何より、月が美しかった。南の国では美しい女性を月に例えると聞いたことがあるがこの美しさならば納得だった。
ここでゆっくり過ごさせてもらおう。
今日みたいにワインを楽しむのもいい。
あの湖の遊覧船にも乗ってみたい。
何もしない日を作るのもいいだろう。
予定のない縛られることのない日々を過ごす。
◆
『サン゠ジュスト家の怪死事件』の作者であるエリスの新作小説が発売された。
新たな小説のタイトルは——
『なぜレオナールを頼らなかったのか』
◆
小説の登場人物である男性——レオナール。
家柄も容姿も申し分なく、有能だったため、子どものころから女性に好かれていた。彼は好青年であり、困った人がいたら手を差し伸べるような人だった。多くの女性に言い寄られたが、レオナールには愛してやまない女性——アンジーがいた。
アンジーは才女だった。いつも一人で行動していたが一人で物事をこなせる技量もあった。
彼女は孤高だ、悪く言えば孤立していた。
周囲から孤立している彼女にいつもレオナールは声をかけていた。常に共に過ごし、彼女はレオナールと婚約することになる。
誰もがレオナールの婚約者であるアンジーはこの上なく幸せな令嬢だと思っていた。
だが、アンジーは突然失踪する。
レオナールは当然彼女を探す。
来る日も来る日も彼女を探し駆け回り、彼女の手掛かりを探す彼の姿を見て周囲の人は心を痛めた。
『何か彼女の身にあったのか?』
『分からない。誰も彼女のことは詳しく知らないから。レオナールなら知っていると思うが……』
『そういえば……なぜ彼女はレオナールを頼らなかったのだろうか?』
一人の捜査局員のその言葉から、視点がアンジーへと転換する。
アンジーはレオナールなど愛していなかった。
いつもアンジーはレオナールに言い寄られていた。
迷惑だと言ってもレオナールは聞かない。
貴族であり、容姿も成績も良く、今まで数多の令嬢からもてはやされたレオナールには「アンジーは必ず自分を好きになる」という傲慢な考えがあった。アンジーが迷惑だと言ってもそれが本心だとは思っていなかった。
だが、素直な気持ちを向けないアンジーに徐々に苛立ち始め、嫌がらせじみた行為を行い始める。
彼女の行動を監視し、彼女のミスを捏造した。
困っている彼女に自分が手を差し伸べ助けるような状況を作り出したり、周囲を巻き込み孤立させ彼女には自分だけしか頼る人間がいないのだと思い込ませようとした。
この男は外面だけはよく実は1人の女性を精神的に追い詰め、命を絶つ寸前にまで追い込んだ卑劣な男だった。
アンジーはレオナールがしていることは理解していたが、レオナールのした行為のどれもが捜査局が「事件」と判断しない些細なことだった。レオナールに嫌がらせをされていると誰に相談してもレオナールの気持ちを理解している周囲は「照れているだけ」や「素直になれないだけ」と相手にされない。アンジーの気持ちなどはまったくもって理解することはしなかった。
彼の口車に乗せられた家族にも結婚するようにと迫られ、職場や周囲に味方のいないアンジーはそんな男と結婚されられることに怯え、追い詰められ湖に身を投げる寸前だった。
そんなアンジーを助け、手を差し伸べたのはミズ・フューリーだった。
アンジーはフューリーの手を取り、自身の尊厳を犯そうとするレオナールに復讐することを決意する。
◆
期待の新作と言うことでエリスの小説のファンはすぐにこの本を手に入れた。
前半部分はレオナールの視点は一人の女性を愛し、助け、愛を告げるドラマチックな恋愛要素が強い展開だった。
だが、アンジー視点に話が変わるとレオナールの行動の異常さが分かった。
アンジーの誕生日を祝うレオナールは誰にも誕生日を教えていないのになぜか知っている男に。
いつもアンジーを家に迎えに来るレオナールは、いつも家にまで来る不気味な男に。
一人で行動しているアンジーをいつも見つけるレオナールは、いつもアンジーを隠れて見ていた男に。
愛しているアンジーに爽やかに微笑むレオナールは、醜悪な笑みを向ける男に。
一途な恋心をアンジーに向けるレオナールは、アンジーに対して異様な執着を見せる男に。
レオナールの視点では、彼女との出来事はロマンチックなワンシーンに見えていたが、アンジー視点となるとがらりと印象が変わる。
いかにアンジーがレオナールに迷惑し、恐れていたかが伝わってきた。
自分に振り向かせるためにした行動がいくらなんでも悪質すぎるとレオナールの男性像は女性読者からかなりの顰蹙を買うことになった。
「怖いわ……それに気持ち悪い……」
「寒気がしますわ。アンジーが可哀そう」
「自分だけを頼れるようにして、周囲から孤立させるなんて卑劣だわ。こんな男に頼るわけがないじゃない」
「愛が全てを解決するわけがないわ」
「周りも周りで誰も助けてくれないのね。どうして嫌がっていると分からないのかしら」
「女性をここまで追い詰めるなんて」
あり得ない行動をするレオナールに憤慨する女性たち。
今日はミズ・フューリーシリーズのファンである女性たちの交流会だった。貴族令嬢たちが集うサロンには男性の姿はなく女性だけで話に花を咲かせる。
「ぐすっ……」
そんな中に一人女性の泣き声が聞こえる。
「ち、ちょっと……」
「も、申し訳ございません」
泣き出したのは交流会の場に控えていた年若いメイドだった。いきなり泣き出した彼女に隣にいたメイド仲間が戸惑いの声を挙げた。
「……どうかなさったの?」
いきなり泣き出し始めたメイドに令嬢たちは訝しむ。迷惑をしているというわけではない。だが、この交流会で涙を流すというのはあまりに不自然だった。そのため事情を尋ねる。
「……じ、実は——」
聞けばその若いメイドは最近、同僚の男に似たようなことをされているという。
過去に花瓶を割ってしまったメイドはその場面を同僚の男に見られていた。
男の言うことさえ聞けば黙っていてくれるということだった。仕事を盾にされ、病気の母を抱えるメイドはその言葉に縋るしかなかった。
そのしばらくは同僚の男にいいように使われていたが、ついに自身との交際を求めてくるようになった。交際と言っても一方的な搾取のような関係だということは分かったが、交流関係までも知られている。誰かに言えば「家族や友人を殺す」とまで脅され誰にも言い出せずにいた。
そんな中、自分と同じように追い詰められた境遇に置かれた女性の話を聞いてこらえきれず涙があふれてしまったそうだ。今はこの空間にその男がいないという安心感もあったのだろう。
「……花瓶を割ってしまった私に非はございます。ですが「これ以上拒むのなら母の指を切って送り付ける」と脅されて……もう、どうしていいか分からず……申し訳ございません。私はどうなっても構いません、ですが……何卒、どうか母をお助けください……」
「「「「…………」」」」
視線を合わせ、頷き合い、無言で立ち上がる貴族令嬢たち。
虐げられる女性の小説を読み加害男性に憤りを感じていた。
義憤にかられた貴族令嬢たちがメイドを守るために行動を始めるのは当然の流れだった。
令嬢たちが脅迫しているという同僚男性を追い詰め成敗し、メイドを救ったという美談も話題になった。そのきっかけを作った小説『なぜレオナールを頼らなかったのか』はますます知名度を広げていった。
◆
とある男がこの小説を読めば自らの行いと重なる部分を客観的に突き付けられた気分になっただろう。
だが、とある男——レオンハルトはこの小説を読んでいない。いや、読むことができない。
彼は今、王都捜査局に身柄を拘束されていた。
彼の目の前にいるのは捜査局の職員だ。
「……では、アンヌ・ユグノー嬢の失踪の件についての話を聞かせてもらおうか」
外よりも暗く、無機質で静かな緊張感が漂う取調室の空間の中で、レオンハルトは身体を震わせることしかできなかった。
誤字脱字報告ありがとうございます。
多くの方に読んでいただき感謝申し上げます。




