第三話 聖域の転落
【拓也視点】
墓所の空気は、昔と変わっていない。
冷たい土の匂いと、湿った苔の感触。
それだけが、やけに正確に記憶を呼び起こす。
——気がつけば、あれから20年が経っていた。
唯とは、あの時から曖昧な距離のまま時間だけが過ぎた。
会わなくなったわけじゃない。
でも、会う理由もなくなっていった。
唯は結婚し、家を出た。
俺も家庭を持ち、あの家を離れた。
普通の生活を選んだはずだった。
それでも、年に数回だけここに来る。
墓掃除という名の、ただの習慣。
嫌いだった親父も、もういない。
それでも、この場所だけは残っている。
雨上がりの墓所。
冷たい苔と湿った土の匂いが、肺の奥にまとわりつく。
なのに、
唯の身体から立ち上る熱だけが、
この空気の中で異様に浮いていた。
墓掃除のブラシの音が、
いつの間にか別の音に聞こえてくる。
俺は背徳感より先に、
目の前の光景に頭が真っ白になった。
唯が跪いている。
二十年前の少女の面影は残っているのに、
その目だけは、まったく別のものになっていた。
静かで、冷たくて、
どこか俺を見下ろしているような目。
「……拓也」
名前を呼ぶ。
「……」
すぐに視線が逸れる。
直視できないほどの気まずさが、胸の奥にじりじりと広がっていく。
あの一瞬、レンズ越しに目が合った。
唯の瞳は驚くほど大人びていて、綺麗だった。
唯が静かにスマホを構える。
レンズの横で点滅する赤い光が、
俺の逃げ場のない表情を容赦なく捉えていた。
「……どうしてそんなにソワソワしてるの?」
唯の声は、自分をからかうように低く、落ち着いていた。
俺は唇を噛み、何か言い返そうとして……結局、言葉を失って俯く。
二十年前、
あの四畳半で唯が怯えていた時の、あの空気。
あの時の自分がいかに独善的で、こいつを追い詰めていたか、今さら思い知らされる。
今は完全に逆だ。
俺のほうが唯の圧倒的な存在感に呑まれ、首筋まで真っ赤に染まっていく。
唯はゆっくり立ち上がり、
俺の顔を覗き込んできた。
「ねぇ、覚えてる?」
心の中を見透かすような問いに、胸の奥が強く抉られた。
覚えている。
忘れられるわけがない。
あの日の四畳半、俺が一方的に押し付けた熱と、唯の消えなかった震えを。
唯は微笑んだ。
その笑顔は、
綺麗で、少し意地悪で、どこか哀しげだった。
「……拓也、あの時わたしのお願い聞いてくれたっけ?」
その言葉を静かに落とされた瞬間、
俺はいよいよ耐えかねて、がっくりと肩の力を抜いた。
墓所の静けさが、
二人の間に、ひどく濃密な空気として重く沈む。
「……あの時の、仕返し♡」
その一言で、
俺の顔は、耳どころか首筋まで一気にボッと赤くなった。
昔の自分の未熟さを突きつけられた後悔と、
今の唯に完全に主導権を握られているという、言い訳のしようのない羞恥。
全部が混ざった、一番見られたくない情けない表情を撮られている。
でも、逃げようとは思わなかった。
(これで、いいのか)
唯にすべてを支配されたまま、俺は目の前の彼女を静かに見つめた。
「……これで、やっと少しだけ返せたかな」
その声は優しいのに、
胸の奥に重く、どこか温かく沈んだ。
あの四畳半みたいに、
空気を閉じ込めてくれる壁は、もうどこにもない。
雨水が墓石を一滴ずつ叩く音だけが、
やけに鮮明に響く。
その静けさの中で、俺は熱を持ったまま、ようやく深く息を吐き出した。




