第七章 開発室の臨検
「直立不動の姿勢を維持しろ、佐藤くん。本省からの臨検だ。粗相があれば我が課の存続に関わる」大塚課長のその声は、かつてないほど引きつっていた。午後二時、国立ラブホテル「ミライ国立府中」のフロントに、二人の男が現れた。仕立てのいいダークグレーのスーツに、胸元には内閣府 人口増加局 人口増加開発室と刻まれた銀色のバッジ。先頭を歩くのは、三十代前半とおぼしき若手エリート、一ノ瀬統統括監だった。その目は徹頭徹尾、生身の人間ではなく、統計学上の数字だけを見つめる者のそれだった。「人口増加開発室の一ノ瀬です」彼は白い手袋をはめた手で、フロントのデスクにタブレットを置いた。大塚課長は腰が折れんばかりに頭を下げ、揉み手で彼を迎える。「お、お疲れ様です、一ノ瀬統括監! 本日はどのような――」「形式的な挨拶は省きましょう」一ノ瀬は冷酷に言葉を遮った。「マクロデータにおいて、今期の全国出生率の予定数値に対する進捗が著しく下回っている。特にこの東京第三地区、およびミライ国立府中の熱量生産効率の停滞は深刻です。局長からの指示により、これより当施設の全データ、ならびに周辺シェアハウスの運用ログに対する臨検を行います」
一ノ瀬の同行者が、ホテルのメインサーバーに監査用の外部端末を接続した。画面には、これまで蓄積された数万人分の市民の行為のログが、凄まじい速度で吸い上げられていく。 一ノ瀬は無表情に明滅するグラフを見つめながら、淡々と指摘を始めた。「……基準未達世帯の強制再起動の執行件数が、開発室の試算より四パーセント少ない。大塚課長、現場の管理が甘いのではないですか? 感情的な温情は、国家リソースの無駄遣いと同義ですよ」 「滅相もない! 規律通りに処理しております!」課長は額の汗を拭いながら、必死に弁明する。その醜態を横目で見ながら、私の背中を冷たい汗が伝った。一ノ瀬の端末の精査は、じわじわと過去のログへと遡っていく。第四章で私が意図的に電波障害として処理した、加藤夫妻の失踪データ。そして、今まさに私の首元にある、いつもより一センチだけ緩んだネクタイ。もしこの監査AIが、あの夜の私のスタンドアロン端末の不可解な挙動を意図的な隠蔽と検知すれば、私はその場で職務怠慢、あるいは国家反逆罪に類するペナルティを受けることになる。一センチの余白が、一瞬で絞め殺される。その時、一ノ瀬の指が、あるデータの前で止まった。昨日、私がフロントで監視した、あの罵り合いながら最高スコアを出した喧嘩夫婦のログだった。「触らないでよ、汚らわしい」「見るだけで虫唾が走る」ピーカーから再生される、生々しい呪詛の音声。しかし、同時に画面に表示されるのは、完璧な熱量と皮膚温度の上昇を示す真っ赤なバイオセンサーのグラフ。大塚課長が、恐る恐る口を開いた。「あ、あの……一ノ瀬統括監。この世帯などは、数値こそ優良ですが、現場での会話を見る限り、実態は完全に仮面夫婦でありまして……」「それが何か?」一ノ瀬は冷たく言い放ち、眼鏡の奥の目を細めた。「言葉の拒絶など、マクロ経済の前には何の意味も持たない。素晴らしいデータだ。精神的には憎み合っていながら、ポイントのインセンティブと税金の脅迫によって、肉体は完璧に国家の意図通りに機能している。これこそ、我が人口増加開発室が目指すべき強制同期モデルの理想形だ」彼は満足そうにタブレットにチェックを入れた。「このモデルを全国の国立ラブホテルに義務化する方針で、次の法案を起草します。市民に必要なのは愛という不確かに変動する感情ではない。システムへの過剰適応と、生存コストに縛られた肉体の従属だ」その言葉を聞いた瞬間、私の喉の奥に、鉄のような味が広がった。現場で人間のドロドロした罵り合いや、絶望の涙を見てきた私に対し、本省の彼らは、その地獄を効率的なシステムとして、さらに精緻に、さらに容赦なく開発しようとしている。一ノ瀬はタブレットを収め、白い手袋を整えながら私を真っ直ぐに見つめた。「佐藤くん、と言ったね」「はい」 私は声が震えないよう、喉を固めた。一ノ瀬の視線が、私の首元わずかに緩んだ一センチのネクタイに、一瞬だけ留まったように見えた。「現場の人間は、時に数値の冷徹さに耐えかねて、システムをバグらせようとする。だが覚えておきなさい。この国において、システムの外側に逃げ場所など、一センチ四方も存在しないのだということを」
それが、警告なのか、それとも単なるエリートの傲慢な独り言なのかは分からなかった。 彼らが去った後、フロントには無機質なエアコンの音だけが残されていた。大塚課長は安堵のあまり椅子に崩れ落ち、私は自分のポケットの中で、電源を切ったままの携帯端末を強く、壊れるほどに握りしめていた。




