第六章 熱源の矛盾
ミライ国立府中のフロントに戻った私を待っていたのは、五月の生温かい風と、自動ドアをぶち破るような勢いで入ってきた一組の男女の罵声だった。「ちょっと、あんた! 足引っ張らないでよ! 今月あと二百ポイント足りないのよ! このままじゃ来月の酸素税免除が消えるの、わかってんの!?」「うるさいわね、俺だって仕事の合間に無理やり来させられてんだよ! 言っとくけどな、ポイントのためだからな! 私だって誰があんたなんかと抱き合いたいかよ、顔見るだけで虫唾が走るわ!」三十代半ばほどの夫婦だった。互いに視線すら合わせず、憎悪の塊のような言葉をフロントの空間に撒き散らしている。女性は怒りで肩を震わせ、男性は忌々しそうに財布からマイナンバーカードを引ったくると、自動精算機に叩きつけるようにかざした。ピピッ、と無機質な電子音が響く。「マイナンバーを認証しました。加藤(同姓の別世帯)様。現在の保有ポイント、基準値未達。お急ぎください」「ほら見なさいよ! 機械にまで急かされてるじゃない! 早く鍵取りなさいよ!」「わかってるよ!」男はフロントの私からルームキーをひったくるように奪うと、妻の腕を乱暴に引っ張ってエレベーターへと向かった。二人の背中からは、殺気すら漂っていた。
彼らが四〇二号室に入室したのを確認し、私はフロントの監視モニターを注視した。スピーカーからは、室内の音声データが役所特有の硬質なフォントのテキスト変換と共に流れてくる。「触らないでよ、汚らわしい」「こっちだってビジネスでやってんだよ、動くな」画面に並ぶのは、徹底的な拒絶と言葉の呪詛だった。彼らは心底、互いを嫌悪し合っているように見えた。しかし、その瞬間、ベッドサイドのバイオセンサーのインジケーターが、不気味なほどの滑らかさで動き始めた。画面のグラフが、青から黄色、そして一気に真っ赤な熱源のシグナルへと跳ね上がっていく。心拍数、上昇。皮膚温度、上昇。それらは国家が定める真実の愛の最低充足値を軽々と超え、最高密度の親密さを示す数値を叩き出し始めた。私はモニターを凝視した。スピーカーからは相変わらず、「あんたのこういうところが大嫌いなのよ!」「文句言うな、心拍数が落ちるだろ、肯定的な形容詞を使え!」という、歪んだ罵り合いが聞こえている。だが、彼らの肉体は、その言葉とは裏腹に、システムをクリアするために互いの肌を貪り、完璧な熱量を証明してしまっていた。ポイントのために、減税のために、生き延びるために、脳と肉体が愛という現象を強制的にハックされ、偽物のはずの結合が、数値の上では本物として完成していく。
「規定スコアを検出。ナカヨシ・ポイント、五百ポイントを付与します。国家はあなたたちの愛を賞賛します」人工知能の無機質な音声が、フロントに響く。彼らは本当に憎み合っているのだろうか? それとも、システムに飼い慣らされた肉体が、主人の意志を離れて勝手に歓喜しているだけなのか。言葉の拒絶と、肉体が示す熱源の、生々しい矛盾。私は一センチだけ緩めたネクタイに指をかけ、明滅するモニターを見つめた。国家が竣工したこの巨大な家畜小屋の底知れない恐ろしさが、冷気となって私の背筋を這い上がっていった。




