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第八章 裏の竣工

 「愛の生産効率を最大化せよ。これより我が国は、真の適応期に入る」一ノ瀬統括監が主導した喧嘩夫婦モデルの全国義務化により、国立ラブホテル「ミライ国立府中」のフロントは、かつてない熱気と憎悪に満たされていた。自動ドアをくぐってくるのは、互いの顔を見るだけで吐き気を催しているような男女ばかりだ。彼らは精算機の前で罵り合い、互いのマイナンバーを叩きつけるようにスキャンする。だが、ひとたび客室のベッドに倒れ込めば、バイオセンサーをクリアするためだけに、生存本能で肉体を激しく駆動させる。フロントの株価ボードのような大型モニターが、狂ったように市民の感情を査定し、秒単位で数値を更新し続けていた。人間の尊厳であるはずの愛が、調味料や清掃用具と同列のコモディティとして消費され、大塚課長はその達成率の急上昇に「我が課の予算は安泰だ!」と狂喜乱舞している。これこそが一ノ瀬の竣工した、完璧な家畜小屋の姿だった。だが、私は終わっていなかった。 私は表向き、完璧なマニュアル人間として一ノ瀬のシステムを淡々と運用しながら、深夜のフロントで指先を動かしていた。手元にあるのは、かつて押収したチート・ハートの山。私はその基盤をハッキングし、新たなプログラムを書き換えていたのだ。国家の監視AIは、バイオセンサーの皮膚温度と心拍数の数値しか見ていない。ならば、その数値さえ偽装できれば、部屋の中の空間は完全に自由になる。私が開発した改造チップ、通称一センチの余白。これを客室のセンサーに噛ませれば、AIには最高熱量の情愛のダミーデータを送り続けながら、同時に室内の音声・映像の検閲録音を十五分間だけ完全なノイズで遮断することができる。「佐藤くん、三〇二号室の清掃に回ってくれ」 パート職員の声に、私は「承知しました」と答え、ポケットに数枚のチップを忍ばせてリネン室を出た。カメラの死角、ベッドのシーツを交換するわずか数秒の間に、私はバイオセンサーの裏側へ一センチの余白を静かに竣工させていく。それは、国家のインフラという巨大な要塞のなかに、私が出荷する「バグのパッチワーク」だった。



 その日の夕方、フロントに一組の限界を迎えた夫婦がやってきた。精神的な疲弊から、今にも泣き出しそうな妻と、虚ろな目で宙を見つめる夫。次月の罰金を払えば、彼らの生活は完全に破綻する。 私はルームキーを渡す際、カウンターの死角で、夫の手のひらに小さな黒いチップを滑り込ませた。「三〇二号室です」私はいつもの事務的な微笑みのまま、声のトーンを落として囁いた。「ベッドの裏に、磁石で貼り付けてください。十五分間、何も演じる必要はありません」夫が一瞬、目を見開いた。私は鏡を見なければ誰も気づかないほど、首元のネクタイを指一本分、静かに緩めてみせた。それが彼らへの、唯一の共犯のサインだった。彼らが部屋に入って数分後、三〇二号室のインジケーターが不自然に跳ね上がった。モニターには、完璧に調教された家畜のごとき特級優良の真っ赤な熱源グラフが描かれている。しかし、私の手元のスタンドアロン端末にだけは、彼らの真実のデータが流れていた。スピーカーから聞こえるのは、荒い息づかいでも、偽りの罵り合いでもない。ただの、静かな雨音のようなノイズ。 そのノイズの向こうで、あの夫婦が国家の目から逃れ、十五分間だけ「ただの人間」として静かに抱き合い、涙を流していることを、この世界で私だけが知っていた。


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