第四章 私立の残党
「加藤拓海、ならびに美咲の二名が、昨夜から第三地区連帯責任シェアハウスの居室より無断失踪。ポイント残高はゼロ。次月の婚姻強制再起動を拒否した逃亡とみられる」スマートフォンの画面に表示された人口増加推進課の緊急令達を見つめながら、私は冷たい五月の雨のなか、甲州街道のさらに奥へと車を走らせていた。彼らは第一章で私が査察した夫婦だった。システムの網の目に引っかかり、会話の語彙まで制限され、費用対効果の計算に疲れ果てたあの二人だ。 手元の追跡端末は、彼らのウェアラブル端末が発する微弱なスタンドアロン信号の履歴を捉えていた。電波の届かない山谷の境界。行政の監視衛星すら、地形の歪みによって死角となるその場所に、彼らの足取りは消えていた。ぬかるんだ泥道に車を残し、傘を差して歩く。鬱蒼とした木々の向こうに、そのコンクリートの廃墟は姿を現した。 色褪せたピンクと紫のネオンサイン。今や完全に死に絶えた、民間経営時代の私立ラブホテルの残党だった。敷地内には、不法占拠されていることを示す生活の痕跡が微かに残っている。錆びついた手すりを掴み、埃の積もった廊下を歩く。マイナンバーをスキャンする自動精算機はない。壁の四隅に会話を盗聴するAIカメラもない。国家のデータベースから完全に切断された、ただの暗がりの空間。 奥の一室のドアが、微かに開いていた。私は呼吸を整え、万能鍵の代わりに携帯型の査察端末を構えて部屋に足を踏み入れた。「加藤さん。人口増加推進課の佐藤です。戻りましょう」しかし、私の声は、部屋のなかの光景に遮られて途切れた。カビ臭い、色褪せたベッドの上で、加藤拓海と美咲は、互いを壊れ物を扱うように強く、強く抱きしめ合っていた。そこには、皮膚温度を測るバイオセンサーも、心拍数を記録するインジケーターもない。当然、彼らの行為にポイントは一分も発生せず、次月の減税措置も適用されない。国家の基準から見れば、彼らの現在のスコアは完全なるゼロであり、生存価値のない不適合者だった。だが、二人の顔には、私がシェアハウスの狭いリビングで見たような、あの申請書の不備を恐れる役所の窓口のような強張った表情は一切なかった。美咲は拓海の胸に顔を埋め、拓海は彼女の髪を静かに撫でている。彼らは、ポイントのためではなく、罰金を逃れるためでもなく、ただ「私はここにいる、あなたもここにいる」という事実のためだけに、非効率で、無価値で、しかし圧倒的に本物の時間を営んでいた。美咲が私に気付き、ゆっくりと顔を上げた。その目は、濡れていたが、真っ直ぐに私を見据えていた。「佐藤さん。ここには、私たちの声を点数にするAIはいません。私たち、やっと、ただの人間になれた気がするんです」手元の査察端末が、激しく明滅を始めた。「重要違反世帯を検出。国家リソース毀損、ならびに不法占拠の罪。直ちに位置情報を送信し、強制執行班を要請してください」画面の通信ボタンを押せば、一分以内に推進課の突入班がこの廃墟を取り囲むだろう。加藤夫妻の籍は剥奪され、私は「未達世帯の摘発」という最大の功績を挙げ、次期の昇給と優良ポイントを手に入れることができる。
私の指が、画面の通報ボタンの上でピタリと止まった。耳を澄ますと、雨音がコンクリートの屋根を叩く音だけが響いていた。国家のノイズが一切届かないこの静寂のなかで、私は引き出しの奥に眠っていた、あの古い色褪せたパンフレットの言葉を思い出していた。「誰の目も気にせず、ただ抱き合う男女の影」。私は、震える指先を画面から引き離した。そして、端末の電源ボタンを長押しし、画面が完全に黒い沈黙に包まれるのを見届けた。「佐藤さん……?」 拓海が怪訝そうな声を出す。私はネクタイを首元から完全に引き抜き、ポケットに押し込んだ。事務的な微笑みを捨て、ただの、ひどく疲れた三十代の男としての顔で、彼らに告げた。「甲州街道の裏道は、監視カメラの保守点検が明日の午前中まで入っています。逃げるなら、それまでに」私は振り返り、二人のスコアゼロの聖域を後にした。外に出ると、冷たい雨が私の顔を濡らした。明日、役所に行けば、端末の紛失と職務怠慢で私は懲罰を受けるだろう。私の生存スコアも、これで一気に異常値を検出するはずだ。しかし、濡れたアスファルトを歩く私の足取りは、不思議なほどに軽かった。




