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第九章 聖域のパッチワーク

 バグの竣工は、東京郊外の梅雨の湿気とともに、静かに、しかし確実にその感染広がりを見せていた。私が夜な夜なフロントの死角で量産した改造チップ一センチの余白は、ミライ国立府中の客室へ次々と埋め込まれていった。シーツ交換の数秒、あるいは点検の合間。私の指先から生み出されたインフラの死角は、今やホテルの全客室の三割に達している。フロントの景色は一変した。「本日もナカヨシ・ポイントの還元枠は残りわずかです」私がマニュアル通りにアナウンスを流すなか、ロビーには青白い顔をした市民たちが列をなしている。彼らの多くは、ネットの裏掲示板や、あるいは第四章で私が逃がした加藤夫妻たちの口コミを頼りに、このミライ国立府中を目指してやってきた者たちだった。「これ、フロントの佐藤さんから……」市民たちの間で、いつしかそんな密語が交わされるようになっていた。 ルームキーを渡す瞬間、私の指先から彼らの手のひらへと、小さな黒いシリコンチップが滑り落ちる。彼らは一言も発しない。ただ、鏡を見なければ誰も気づかないほどに微かに緩められた私の首元を、確信に満ちた目で見つめ、部屋へと向かっていく。彼らが一センチの余白をベッドの裏に貼り付けた瞬間、私のフロントモニターには完璧な家畜たちのデータが並ぶ。画面上の株価レートと連動し、三〇二号室、三〇五号室、四〇一号室のインジケーターが次々と真っ赤な熱源シグナルを叩き出す。AIは「特級優良:国家はあなたたちの愛を賞賛します」と無機質に祝福のログを刻み、大塚課長は本部への報告書を眺めて「今月の我が課の達成率は全国トップだぞ!」と、机を叩いて狂喜していた。



 しかし、私の手元のスタンドアロン端末が拾う真実のログは、全く異なる音を奏でていた。スピーカーから流れてくるのは、音声検閲を遮断された、完全な空白の十五分間。ある部屋からは、ただお互いの名前を呼び合って静かに咽び泣く声が聞こえた。またある部屋からは、システムにハックされる前の、昔の他愛のない思い出話を囁き合う声が聞こえた。彼らは、国に命じられた生殖の義務を遂行しているのではない。ポイントのためでも、減税のためでもない。ただ、国家の耳が届かない15分間の暗がりのなかで、剥き出しの「ただの人間」に戻り、傷つき合わされた互いの尊厳をそっと舐め合っているのだ。国立ラブホテルという国家の要塞のなかに、網の目を潜り抜けた愛の密輸地帯がパッチワークのように広がっていく。この無機質なコンクリート建築の底で、私は確かに、人間の呼吸する空間を築き直していた。だが、システムの自動更新日は刻一刻と近づいている。深夜、フロントの画面に次世代思考盗聴プロトコル・全館一斉強制アップデートまで、あと四十八時間のプロンプトが非情に浮かび上がった。一ノ瀬が仕掛けた次の網が、すぐそこまで迫っていた。私はネクタイのノットをもう一ミリだけ引き下げ、次なる暗闘のコードを静かに叩き込み始めた。


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