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最終章 異常値の賞賛

 「全館一斉強制アップデート、完了」 深夜二時。フロントのメインコンソールに無機質なシステムメッセージがポップアップし、青い光が私の顔を冷たく照らした。一ノ瀬が仕掛けた、思考盗聴プロトコルを含む次世代監視システムの竣工だった。客室のバイオセンサーはさらに鋭敏になり、今や皮膚温度や心拍数だけでなく、微細な寝返りの速度、呼吸の深度から愛の偽装を自動検知する網が完成している。はずだった。翌朝、ミライ国立府中のフロントに、一台の高級黒塗りセダンが横付けされた。ドアが開き、白い手袋をはめた一ノ瀬統括監が、大塚課長を伴って現れる。その足取りは確信に満ちていた。本省の監査AIが、全国の施設の中で異常な達成率を叩き出し続けるこの場所に、決定的なバグを検知して乗り込んできたのだ。



 「佐藤くん」一ノ瀬はフロントのデスクにタブレットを叩きつけた。画面には、昨夜から今朝にかけての全客室のデータログが赤く明滅している。「説明してもらいましょう。新システムが稼働したというのに、このミライ国立府中の特級優良達成率は九十八パーセントを維持している。それどころか、全国のいくつかの特区でも、同様の異常な数値が同期を始めている。現場の職員がシステムに不純物を噛ませているという、明確なバグの証拠だ」大塚課長が恐怖で顔を真っ青にし、私のネクタイを掴まんとばかりに身を乗り出す。だが、私は動じなかった。一センチだけ緩めたネクタイのまま、静かに一ノ瀬を見据え、コントロールパネルの再生ボタンを押した。「一ノ瀬統括監、お言葉ですが、データはすべて本物です」スピーカーから、ある客室の音声ログが流れ出す。狂ったように明滅する株価レートの真下で、スピーカーからは、新システムすら欺くほどの、狂気的な愛の叫びと肉体の駆動音が大音量で響き渡った。「あんたの何もかもが気に入らないのよ!」「動くな、心拍数を維持しろ、これで来月の税金が免除される!」生々しい憎悪と、完璧な熱量の完全な同期。一ノ瀬が「理想」とした、あの喧嘩夫婦モデルのログそのものだった。それが、三〇二号室からも、四〇五号室からも、まるで感染したかのように一斉に再生される。「……な、んだと?」一ノ瀬の目が初めて驚愕に揺れた。彼が持ち込んだ新型監視AIは、あまりにも精密すぎた。だからこそ、市民たちは生き延びるために過剰適応を極めたのだ。精神を完全に殺し、脳の回路を組み替え、国家のシステムをクリアするためだけに肉体を完璧な機械へと竣工させてみせた。その偽物の熱量は、一ノ瀬の最新システムをしても本物の真実と判定せざるを得ないほどに完成されていた。市民たちは、私が渡した一センチの余白というチップを使い、システムを騙す技術を裏で共有し、自らを家畜に擬態することで、国家の目の前で堂々と聖域を守り抜いていたのだ。「システムは、数値を真実とみなします」私は、一ノ瀬の言葉をそのまま、完璧な事務的微笑みとともに返した。「市民は過剰に適応しました。これこそ、人口増加開発室が目指した、生存コストに縛られた肉体の従属の姿です。何か不備がございましょうか」一ノ瀬は絶句した。自分の作った完璧な檻のなかで、家畜たちが「檻のルール」を完璧にハックして自由に入れ替わっている。その矛盾を、彼の愛する統計学では証明できない。



 「……素晴らしい、現場の管理だ」一ノ瀬は絞り出すようにそう言うと、屈辱に震える手でタブレットを収めた。去り際、彼は私の首元、わずかに緩んだネクタイを睨みつけ、冷酷に言い放った。「だが、忘れるな。システムは常に更新される。次回の大型アップデートでは、この程度の擬態、一秒も持たずに絞め殺して見せる」「お待ちしております。役所の処理は早い者勝ちですので」私が頭を下げると、一ノ瀬は背を向け、嵐のように去っていった。大塚課長は「いやあ、冷や汗が出たよ!」と笑いながら奥のオフィスへ消えていく。静寂が戻ったフロントで、私は手元のスタンドアロン端末に目を落とした。画面の最深部、本省のメインサーバーから、奇妙な通知が届いていた。「警告:東京第四地区、大阪第二地区の国立ホテルにおいて、未認可のノイズプロトコル一センチの余白の自律的コピーを検出。感染源:ミライ国立府中。自動追跡を開始します」「……フッ」 私の唇から、初めて小さな笑みが漏れた。 バグは、もう私だけの手を離れ、この国のシステムそのものを内側から侵食し始めている。自動ドアが開き、また次の家畜のフリをした人間たちが、切実な目をしながら入ってきた。私はネクタイのノットを、さらに一ミリ、静かに引き下げた。



 「いらっしゃいませ。ミライ国立府中へお越しいただき、誠にありがとうございます」私はただの、ひどく不敵な笑みを浮かべた一人の管理人として、竣工なき戦いの第二ステージを迎えるために、フロントの画面を更新した。





【エピソード一 完】


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