第5話 父上の部屋の前で
母上と稽古をした翌日の昼前、僕は父上を探していた。
あの止まり方を、もう一度教えてほしかった。教わった立ち方は覚えているのに、速く動こうとすると右足が近くなってしまう。
「マルタ、父上はどこ?」
「一階の執務室にいらっしゃいますよ」
「じゃあ、父上のところに行く! この前の稽古のこと、聞きたいんだ」
「かしこまりました。家令様に伺ってみましょう」
マルタと階段を下り、廊下の奥へ向かった。
父上が仕事をする部屋の手前には、取り次ぎのための控えの部屋がある。僕が家族の部屋へ父上を呼びに行く時とは違って、ここではオスカーたちが用件を伝えてから、中へ通してくれる。
今日は、オスカーが書類を持って立っていた。
「若君。旦那様にご用でしょうか」
「うん。稽古のことで話したい」
「ただいま、エドガー様からご報告を受けていらっしゃいます。私からお伝えしてまいりますので、少しお待ちください」
奥の扉へ顔を向けた。父上の声が聞こえる。それより小さな声で、誰かが答えた。
エドガーは、名前をもらった日にもいた男爵だ。父上の所へ、よく書類を持ってくる。
「まだ、終わらない?」
「今のお話が済んでからになります」
「少し聞くだけなのに」
父上は、すぐ向こうにいる。部屋にいないなら仕方がないけれど、ここまで来たのに。
オスカーは僕を見て、それから持っていた書類を脇に挟んだ。
「領地の仕事をどう進めるか、ご相談なさっているのです。使うお金や、誰に何を任せるかなど、旦那様にお決めいただくことがございます」
「エドガーが決めるんじゃないの?」
「任されていることは、エドガー様がお決めになります。その範囲を超える時には、旦那様へ伺うのです」
オスカーが奥の扉を軽く叩いた。
父上の返事がして、扉が開く。中のテーブルには、紙が何枚も広げられていた。エドガーが椅子から顔を上げた所で、オスカーは体を横にして入り、扉を閉じた。
僕はマルタの隣で待った。
父上の声がまた聞こえたけれど、何と言ったかは分からなかった。やがてオスカーが出てくる。
「お話が済みましたら、旦那様が居間へいらっしゃいます。マルタ、若君をお連れください」
「ここで待ってちゃ駄目?」
「このあとも、人が出入りいたしますので。居間でお待ちいただけますか」
扉をもう一度見た。
オスカーも、書類を持ったままだ。僕の後にも父上へ話すことがあるらしい。
「父上、来てくれるんだよね?」
「はい。そのようにおっしゃいました」
それなら、待つ。僕はマルタと階段へ戻った。
二階の居間には誰もいなかった。窓から明るい光が入っている。僕は椅子へ座り、テーブルにあった絵の本を開いた。
「坊ちゃん、お水をお持ちしましょうか」
「うん」
マルタが水を用意している間に、絵を見ながら何枚かめくった。母上に読んでもらった続きは、もっと先だったはずだ。
僕は本から顔を上げて、戸口の方を見た。
「父上、まだかな」
「先ほどお伝えしたばかりですよ」
グラスが目の前へ置かれた。僕は水を飲んで、本へ目を戻した。けれど、父上に聞きたいことの方が気になった。
考えているうちに、父上があっという間に遠くまで動いて、ぴたりと止まった姿を思い出した。
戸口の方で、マルタが立った。
「旦那様」
「おう。アルヴィン、待たせたな!」
「父上!」
本を置いて椅子から下りた。父上が入ってきて、大きな手で僕の頭を撫でる。戸口にはオスカーもいた。
「稽古の話だったな。どうした?」
「止まる時にね、右足を寄せすぎちゃうんだ」
「おう」
「ゆっくりだと、あんまり近くならないけど、父上みたいに速くしたくて……」
父上は僕の前にしゃがんだ。
「あの速さでやろうとしたのか?」
「まだ、そんなに速くできないけど」
「ははっ、そうだろうな! ゆっくりなら、ぴたりと止まれるか?」
「まだ、止まったあとに、足を動かしちゃう」
「おう、よくなってきたな! まずは、足を直さずに止まれるようにするぞ。速くするのは、それからだ」
「また、父上も見てくれる?」
「もちろんだ! それと、ラウルにも見てもらおう」
父上が戸口のオスカーへ顔を向けた。
「ラウルに伝えてくれ。次の身体の稽古から、息子の動きを見させる。足の置き方と、踏み込んで止まるところだ。剛躯はまだ使わせるな」
「かしこまりました」
「二つの血統のことも伝えておけ」
「はい。併せてお伝えいたします」
オスカーが一礼して出ていった。
ラウルは、父上に仕えている騎士だ。顔も名前も知っているけれど、まだ稽古を見てもらったことはない。
「ラウルとやるの?」
「そうだ。あいつは、人の動きをよく見ている。お前がどこで足を寄せすぎたかも、見てもらえ。俺が仕事で出られん日にも、稽古を続けられるぞ」
「父上とやるのは?」
「俺ともやるぞ! ラウルに教わったことも、今度は俺に見せろ」
父上が僕の肩を軽く叩いた。
「ちゃんと止まれるようになったら、父上にも見せる」
「おう、楽しみにしてるぞ」
僕は父上の袖をつかんだ。聞きたかったことは話せたけれど、父上はまだ、仕事へ戻るのだろうか。
「もう行っちゃう?」
「少しなら、ここにいられる。何を見てたんだ?」
父上がテーブルの本を指した。
「これ。母上が読んでくれたやつ」
「そうか。どこまで読んだ?」
「今日は、まだ読んでない」
絵をめくっていたら、同じ所へ戻っていた。父上を見上げると、笑っていた。
「じゃあ、少し読んでやろう」
「ここからがいい!」
父上が椅子へ腰を下ろしたので、僕はその隣へ座った。
マルタが本を寄せてくれる。僕はさっき探していたページを開き、父上の方へ押した。
父上の指が、最初の行に置かれた。僕もそこを見た。




