第62話 リカバリードラフト
小蓮の呼吸だけが、広間の中で細く、危うく揺れていた。
「小蓮!」
返事はない。
赤城さんが小蓮の首元に手を当てる。
「かなり弱ってる。すぐに戻らないと――」
リッチは倒した。
スケルトンも消えた。
なのに、小蓮がこのまま消えてしまいそうに見える。
「夏……」
小蓮の唇が、かすかに動いた。
「喋るな!」
俺は小蓮の手を握る。
冷たい。
細い。
こんな手で、さっきまでみんなを守っていたのか。
「どうしたら……」
俺は広間を見回した。
黒い砂。
崩れた石板。
古い柱。
何もない。
そう思った時だった。
広間の中央で、何かが小さく光った。
「……?」
俺は顔を上げる。
リッチが消えた場所。
黒い霧が弾けた、そのあたり。
床の上に、小さな瓶のようなものが落ちていた。
透明な瓶。
中には、淡い金色の液体が入っている。
「あそこに何かある」
俺が言うと、真宮寺さんがすぐに反応した。
「誰も触らないでください。まず確認を」
真宮寺さんが腕輪をかざす。
数秒後、表示が浮かぶ。
真宮寺さんの目が、大きく開いた。
「……リカバリードラフト」
「今、何て……?」
俺は聞き返す。
真宮寺さんは瓶を見つめたまま、もう一度言った。
「リカバリードラフトです。腕輪の鑑定結果では……間違いありません」
小蓮に必要だった薬。
真宮寺さんのお母さんを救った薬。
月光草がなければ作れないはずの薬。
それが、リッチの消えた後に落ちている。
「リッチのドロップ品……?」
赤城さんが不思議そうに言った。
「そんな都合よく……」
都合がいい。
確かに、そう思う。
でも、今は理由なんてどうでもよかった。
「小蓮に飲ませても?」
俺は赤城さんを見る。
赤城さんはすぐに瓶へ近づいた。
「腕輪の鑑定でリカバリードラフトなら、本物の可能性が高い」
「だったらお願いします」
俺は小蓮の体を支える。
小蓮の頭を、そっと俺の腕に預ける。
呼吸は浅い。
赤城さんが瓶の栓を開けた。
淡い金色の光が、瓶の中で揺れる。
薬というより、液体そのものが静かに息をしているみたいだった。
「小蓮、聞こえる?」
赤城さんが低く声をかける。
「少しだけ飲んで。無理に飲み込まなくていい。ゆっくり」
小蓮のまぶたが、かすかに震えた。
赤城さんが瓶の口を小蓮の唇に当てる。
ほんの少し、液体が流れ込む。
小蓮の喉が、小さく動いた。
一度。
そして、もう一度。
金色の液体が、少しずつ小蓮の口に入っていく。
数秒後、小蓮の胸が大きく上下した。
「っ……!」
苦しそうに息を吸う。
でも、それまでよりも深い息だった。
「小蓮……?」
俺は小蓮の顔を覗き込む。
さっきまで血の気が引いていた唇に、少しずつ色が戻っていく。
冷たかった指先が、俺の手の中で温かくなっていく。
淡い金色の光が、小蓮の胸元から広がった。
「え……」
誰かが小さく声を漏らした。
金色の光は、小蓮の体を包み込むように広がっていく。
それに重なるように、小蓮自身の白い光がふわりと浮かび上がった。
金色と白。
小蓮の荒かった呼吸が、ゆっくり整っていく。
胸が静かに上下する。
もう苦しそうじゃない。
赤城さんが小蓮の首元に手を当てたまま、目を見開いた。
「……脈が戻ってる」
「本当ですか?」
「戻ってるどころじゃない。安定してる」
赤城さんの声に、信じられないような響きが混じっていた。
小蓮のまぶたが、ゆっくり開く。
その瞳に、白い光が一瞬だけ宿ったように見えた。
「……夏」
小蓮が俺を呼んだ。
さっきまでのかすれた声じゃない。
ちゃんとした、小蓮の声だった。
「小蓮!」
「もう大丈夫」
小蓮はそう言って、ゆっくり体を起こした。
肩も震えていない。
呼吸も乱れていない。
顔色も、さっきとはまるで違う。
むしろ、白い光をまとっているせいで、いつもの小蓮よりもずっと遠くにいるみたいに見えた。
神々しい。
そんな言葉が、頭に浮かんだ。
さっきまで俺の腕の中で、今にも消えそうだったのに。
赤城パーティの人たちも、太野川たちも、誰も声を出せない。
小蓮は自分の両手を見る。
その手のひらにも、淡い白い光が残っていた。
「体が……軽い」
「本当に大丈夫なのか?」
俺が聞くと、小蓮は俺を見る。
そして、少しだけ笑った。
「うん。今度は、本当に大丈夫」
その言葉を聞いた瞬間、足から力が抜けそうになった。
よかった。
その一言しか出てこない。
ちゃんと、俺の前で笑っている。
「よかった……」
俺の声は、自分でも驚くくらい小さかった。
小蓮は少し困ったように笑う。
「夏、泣きそう」
「泣いてない」
「泣きそう」
「うるさい」
そう返したけど、声は震えていた。
赤城さんが静かに息を吐く。
「さっきまで弱っていた体とは思えない」
「それどころか……」
真宮寺さんが小蓮を見つめる。
「以前より、魔力の流れが澄んでいるように見えます。まるで、詰まっていたものが全部消えたみたいに」
小蓮の周りの光は、少しずつ弱まっていく。
白く、淡く、静かな光が、小蓮の体の輪郭から消えた。
小蓮はゆっくり立ち上がった。
「立てるのか?」
「うん」
小蓮は自分の足で床を踏んだ。
ふらつかず、しっかりと前を見る。
ぴんと伸びた背中。
呼吸も乱れない。
それを眩しいと思えたと同時に、胸の奥にあった重いものがほどけた。
赤城さんが先頭に立つ。
「さあ、帰りましょう」
古い石造りの通路を抜ける。
転移で飛ばされた広間から離れていく。
リッチが消えた影響なのか、広間全体からあの嫌な気配も薄れている。
ダンジョンの出口が見える。
外の光が差し込んでいる。
俺たちはダンジョンを抜け、ゴクシ岩場へ出た。
外の空気が肺に入る。
門の黒い揺らぎが目の前に広がる。
「帰るぞ、小蓮」
「うん」
小蓮の返事は、はっきりしていた。
俺はその声を聞きながら、門をくぐった。




