第45話 真宮寺真里亞2
side 真宮寺真里亞
料亭の廊下を歩きながら、私はずっと拳を握っていた。
ママの言葉が、頭の中で何度も響く。
「身分の低い方と親しく付き合うことはできません」
感謝の場だったはずだ。ママの体調が良くなって、その報告とお礼をするための食事だった。
羽賀登野さんは、妹さんにも必要だった月光草を私たちに譲ってくれた。納得しきれなかったはずなのに、それでも使わせてくれた。
恩人としては認める。
でも、親しくすることは許さない。
そんなの、あまりにもひどい。
「ママ」
店の玄関を出る前に、私は足を止めた。
ママが振り返る。
「何ですか、真里亞」
「先ほどの言い方は、失礼です」
自分でも驚くくらい、はっきり声が出た。
ママは表情を変えなかった。
「事実を言っただけです」
「事実でも、言っていいことと悪いことがあります」
「あなたはまだ分かっていません。恩人だからといって、近くに置いていいわけではありません」
「羽賀登野さんは、悪いかたではありません」
「彼が悪人だと言っているのではありません。善良であることと、釣り合うことは違います」
釣り合う。
その言葉が、胸に刺さった。家柄や肩書きで、人の価値を決めるような言い方。
私は、それが昔から嫌だった。
「私は、釣り合うかどうかで羽賀登野さんを見ているわけではありません」
「では、何ですか」
そう聞かれて、言葉に詰まった。
何なのだろう。
恩人、というほどのことではない。
同じように家族のために異世界へ入る人。
危なくなると、迷わず前に出てしまう人。
自分の攻撃が通らなくても、怖くても、格好悪くても、それでも誰かを守ろうとする人。
そう思うと、胸の奥が苦しくなる。
ママの言葉で彼が謝った時、私の方が泣きそうになった。彼が謝る必要なんて、どこにもなかったのに。
「少なくとも、あんなふうに傷つけていい人ではありません」
やっと出たのは、それだけだった。
ママは静かに私を見る。
「真里亞。あなたは真宮寺家の娘です。これから多くの人に見られ、多くの人に利用されます。誰と親しくするかは慎重でなければなりません」
「分かっています」
私は真宮寺家から逃げたいわけではない。でも、だからといって、自分の気持ちまで全部、家のものにしたくなかった。
「羽賀登野さんは、家名や勇者という肩書きで私を見ていません」
言葉にした瞬間、その事実が胸に落ちた。
彼は、私を真宮寺の娘として扱わない。勇者だからと特別に持ち上げることもしない。怖がって距離を取ることも、媚びることもない。
ただ、危ないと思った時に前へ出る。こちらが止める前に、勝手に。
でも、その背中に、私は何度も救われている。
「私は、羽賀登野さんに謝ります」
「必要ありません」
「あります」
今度は、私がはっきり言った。
「ママがどう思っていても、私は謝ります。彼は、あんな言葉を受けるために来てくれたわけではありません」
ママの目が少し細くなる。
「あなたは、自分の立場を理解しなさい」
「理解しています。でも、私が誰に感謝するか。誰を大切に思うか。それは、私自身が決めたいです」
言ってしまった。
心臓が強く鳴る。
ママはしばらく黙っていた。
やがて、小さく息を吐く。
「……車へ行きます」
それだけ言って、先に歩いていった。
私は料亭の玄関を振り返る。
あの奥の個室に、羽賀登野さんが一人残っている。
今、どんな顔をしているのだろう。
私は端末を取り出した。
送信する前に、指が止まる。
『今日は、本当に申し訳ありませんでした』
『羽賀登野さんが謝ることではありません』
本当は、もっと言いたかった。あなたと話している時間は、嫌ではありません。
でも、それを今送る勇気はなかった。
私は短い謝罪だけを送り、端末を胸の近くに引き寄せる。
一昨日のブラックウルフとの戦いを思い出していた。
何度も私の前に出て、何度も噛まれて、それでも下がらなかった羽賀登野さん。
そして、最後に背中合わせになった時のこと。背中越しに、彼の荒い呼吸も、震えているような肩も、すぐ近くにあった。
あの時、私は怖かった。
ブラックウルフは強くて、太野川さんたちも倒されて、次は私だと分かっていた。
それなのに、背中に彼がいると思うと、不思議と呼吸が整った。
守られている、と思ったわけではない。
背中を預けている。
同じ敵を見ている。
肩を並べて戦っている。
その感覚と感情が、胸の奥に残っている。
格好はともかく、それが嫌ではなかった。
むしろ、少しだけいいと思ってしまった。
羽賀登野さんは、私よりずっと弱いはずだった。ステータスも低くて、攻撃も通らなくて、戦い方だって滅茶苦茶だ。
それでも、あの瞬間だけは、隣にいてくれて心強かった。何故か、大丈夫だと感じた。
今日、はっきり分かってしまった。
羽賀登野さんのことを、ただの恩人だと思うには、もう遅いのかもしれない。ママの言葉に腹が立ったのは、礼を欠いたからだけではない。
彼を、私から遠ざけようとしたからだ。
まだ、そんなはずはない。
そう思う。
でも、その言葉はもう、前ほど強くはなかった。




