第34話 ブラックウルフ戦 決着
太野川はまだ起き上がれない。脛比も顔を歪めたまま、片膝をついている。骨田は杖を手放しこそしていないが、ぐったりして動けないでいる。
この場で立っているのは、俺と真宮寺さんだけだった。
「……羽賀登野さん」
真宮寺さんが、前を見たまま小さく言う。
「何」
「三人を連れて下がってください」
「え?」
思わず変な声が出た。
「月光草は諦めます。ここでこれ以上戦うのは危険です」
「でも――」
「下がってください!」
真宮寺さんの声が大きくなる。
「私一人なら時間を稼げるはずです」
ブラックウルフが、さらに身を低くする。
今にも飛びかかってくる体勢だ。
真宮寺さんは剣を正眼に構えたまま、ほんの少しだけ息を整える。
「無理でも、やるしかありません」
「だからって一人で――」
「私は、真宮寺で勇者です」
真宮寺さんは今までもそうしてきたのかもしれない。胸の奥が熱くなるが、何もできない自分が小さく感じる。
ブラックウルフが動いた。
黒い影が地を這うみたいに低く走る。
速い。
さっき太野川たちを倒した時と同じ速度。
真宮寺さんが迎え撃つ。
ガッ!!
剣と前脚の爪がぶつかり鈍い音がした。
重い。
見ているだけで分かる。
真宮寺さんは受け流して横へ跳ぶ。
ブラックウルフもすぐに反転する。
速い。しかも無駄がない。
右から牙。
左から前脚。
真宮寺さんはそれを紙一重でかわし、時々剣で浅く切り返す。
でも、決定打にはならない。
逆に、少しずつ押されている。
「くっ……!」
彼女の靴底がズレる。
ほんの数秒で、真宮寺さんは月光草の近くの岩場へと押しやられていた。
ブラックウルフは低く唸りながら、距離を測るように身を沈める。
(このままだと……)
次の瞬間、ブラックウルフが地を蹴った。
黒い影が一直線に真宮寺さんへ飛ぶ。
「危ない!」
考えるより先に、動いていた。
「羽賀登野さん!?」
真宮寺さんの前へ割り込む。
その直後、肩口に衝撃。
「っ、うおおっ!?」
ガブッ!
ブラックウルフの牙が、俺の肩を噛んだ。
終わった、と思った。
でも痛みは浅い。代わりに――
スポッ!!
「……え?」
噛まれたはずのジャージの上だけでなく下まで脱げて飛んだ。
中の黒いインナーが露出する。
「何でそうなるんですか!?」
真宮寺さんが珍しく声を上げた。
「知らない!」
叫び返した瞬間、真宮寺さんの剣が走る。
銀の軌跡がブラックウルフの頬を浅く裂いた。
ブラックウルフが距離を取る。
金色の目が細くなる。
「下がってください!」
「無理だろ!」
言った直後、ブラックウルフが今度は低く回り込む。
死角。
真宮寺さんの横腹へ食いつく軌道。
また体が勝手に動く。
「うわっ!」
横から飛び込んで押す。
真宮寺さんの体がずれて、ブラックウルフの牙は俺の脇腹の布を噛んだ。
ガブッ。
「っ!」
また来た、と思った次の瞬間。
スポンッ。
今度はアンダーアーマーの下が、妙に小気味いい音を立ててずり落ちた。
「なん!?」
真宮寺さんのツッコミが完全に追いついていない。
「こっちが聞きたい!」
ブラックウルフが着地して反転する。
また来る。
ブラックウルフが再び跳んだ。
真宮寺さんが剣を振る。でも一瞬遅い。
牙が肩口に届く――その寸前で、俺はまた間に入っていた。
「羽賀登野さん!」
「だ、だから勝手に――!」
言い終わる前に、ブラックウルフの牙が俺の背中側の布を咥える。
ガッ。
次の瞬間。
バサッ。
今度はアンダーアーマーの上が、マントみたいに後ろへ飛んだ。
結果、俺は黒いヘルメットに肘、膝サポーターをつけただけの姿になってしまう。
耳鳴りがうるさい。
太野川たちの方から、かすかに声が飛ぶ。
「何で庇うたびに脱げてんだよ……」
「意味分かんない」
「次噛まれたら……」
こっちは全然笑えない。
ブラックウルフは何度浅く斬られても、動きを鈍らせない。むしろ、真宮寺さんを仕留めるまで止まらないって感じだ。
真宮寺さんが短く息を吐く。
「……羽賀登野さん」
「何」
「下がってください、と言いたいところですが」
「うん」
「もう言っても無駄そうなので、せめて私の近くにいてください」
「え?」
その言葉の意味を考えるより早く、ブラックウルフが地を蹴る。
「背中を!」
真宮寺さんが叫ぶ。
反射で、俺は真宮寺さんと背中合わせになる。
真宮寺さんの鎧越しに、彼女の息づかいが早くなっている。こんな状況なのに、それが妙にはっきり分かってしまう。
ブラックウルフが低く唸りながら周囲を回る。
隙を探している。
俺たちの呼吸がずれた瞬間を待っている。
その時、ブラックウルフが動いた。
右から見せかけて、左へ。
「後ろ!」
「っ――」
ブラックウルフの前足が振り上がったと思った瞬間、その姿が消えた。
「ヘブシッ!!」
とんでもなく大きなくしゃみが飛び出した。
くしゃみの勢いで、俺の上半身が前に折れる。 同時に、腰が思いきり後ろへ突き出され、右足が一歩踏み出た。
その結果――。
「きゃっ……!」
真宮寺さんが、俺の尻に押されて前に出た。
「ガウッ!?」
鈍い悲鳴。
振り向くと、真宮寺さんの斜めに返した剣が、ブラックウルフの首元へ深く入っていた。
ブラックウルフの体が大きく震える。そして、そのまま黒い砂になって崩れた。
静寂。
風の音だけが戻ってくる。
「……倒した?」
俺が息を切らしながら言う。
「倒しました」
真宮寺さんも荒い呼吸のまま答える。
その声を聞いて、ようやく全身の力が抜けた。
でも、その時だった。
真宮寺さんの視線が、俺の足元へ落ちる。
顔色が変わった。
「……羽賀登野さん」
「何」
「足元を」
言われて、俺も視線を落とす。
そこにあったのは、淡く光るはずだった白い草。けれど今は、俺の靴の下で無残に踏み潰されていた。
「……あ」
月光草だった。
ブラックウルフを倒した、その拍子に。
俺が、踏んだ。
葉は潰れ、光はほとんど消えている。
もう駄目だと、見ただけで分かった。
「……そんな」
自分でも情けない声が出る。
真宮寺さんは何も言わなかった。
ただ、潰れた月光草を見つめている。
「ごめん」
それしか言えなかった。
ブラックウルフは倒した。
真宮寺さんも無事だ。
みんな生きている。
なのに、いちばん欲しかったものだけが、俺の足元で駄目になっていた。
太野川たちもようやく起き上がり、こっちを見る。
でも、誰も何も言えなかった。
真宮寺さんが、しばらくして小さく息を吐く。
「……仕方ありません」
「でも」
「今は、生きている方が先です。次に服を着て下さい」
静かな声だった。
俺は、ほとんど下着だけになった姿で、潰れた月光草を見つめた。




