第28話 真宮寺真里亞
side真宮寺真里亞
メッセージの画面を閉じても、しばらく端末を置けなかった。
『羽賀登野夏』
連絡先に追加されたその名前を、もう何度見たか分からない。
変な人だと思う。
戦い方は滅茶苦茶で、動きには再現性がない。敵の前でくしゃみをして、転んで、ずっこけて。見ているだけなら、ふざけているようにすら見える。
それなのに、危ないと思った瞬間だけは、迷いなく前に出る。
グレイウルフの時もそうだった。
あんなの、普通は飛び込まない。
まして、自分の攻撃が通らないと分かっているなら、なおさらだ。
それでも彼は動いた。
格好つけるわけでもない。
ただ体が勝手に、とだけ返してくる。
ステータスも低い上に、モンスターを倒していないと聞いている。レベルアップもしていないだろう。
それなのに、あんなに迷いなく飛び込んで来れるのだろうか。
ママのことを伝えた時も、彼は余計なことを聞かなかった。可哀想だとも、大変ですねとも言わない。
ただ、そっかと返した。
その短さが、不思議と嫌じゃなかった。
そこまで考えて、小さく息を吐く。
ママは、私が中学生の時から病気になった。最初は大したことないと思っていたし、本人も元気だった。
それが、一年前から急に悪化した。
ハイヒールポーションを使っていたけれど、それも効きが悪くなってきた。良くなる可能性があるのは、リカバリードラフト。
パパは薬を探して、今はヨーロッパを回っている。真宮寺家の情報網、財力を尽くしてもなかなか手に入れることができない。
ママをあんなに面倒くさいと思えていたのに、具合が悪化してしまうと可哀想だし、なんとかしてあげたいと思ってしまう。
私はママの為に。
羽賀登野さんは妹の為に。
月光草は、一人分。
その現実は何も変わっていない。明日になれば、羽賀登野さんと話さなければいけない。
なのに、今、頭に浮かぶのはママのことだけじゃなかった。
思えば私は、今まで誰かに庇ってもらったことがない。
もちろん、小さい頃はパパもママも大事にしてくれた。しかし、大きくなるにつれて、誰かに弱みを見せることができなくなってきた。
「真宮寺家に相応しく」
だから、学園の生徒会長、茶道部の副部長等、必要以上に沢山の人と関わってきた。
廊下を歩けば誰かに呼び止められる。
書類の確認、行事の相談、部活の後輩の悩み。
頼られることが当たり前で、自分が誰かを頼るということはなかった。
ジョブが勇者になってからは、それがさらに増えた。ギルドの勧誘はたくさんきたし、パーティの誘いも多かった。
それは、真宮寺家と勇者という肩書きが目当てだと分かっている。
なのに、羽賀登野さんは違った。
ただ家族の為に。
妹の為に門をくぐる。
あの低いステータスで。
しかも、こちらが止める前に前へ出る。
意味が分からない。
でも、気になる。そう思ってしまった時点で、もう落ち着かなかった。
端末を開く。
画面には、さっきのやり取りが残っている。
『迷惑ではありません』
自分で送ったその一文を、なぜかしばらく見つめてしまう。
迷惑ではない。
それは本音だった。
グレイウルフの牙が迫った瞬間。くしゃみと一緒に、信じられない動きで前へ出てきた姿。
転ぶようでいて、結果的に私の前にいた。
おそらく勇者のステータスなら、グレイウルフに噛まれても大したダメージは受けないだろう。
それでも、やはり噛まれるのは怖い。
幼い頃から護身術を習ったとはいえ、殴られる練習をするわけではないのだ。ましてや、噛まれたり、武器を使って攻撃を体に受けるなんて。
あの振り向いた瞬間、体が硬直してしまった。あの時、私の視界にあったのは、グレイウルフの牙じゃなかった。
自分でも驚くくらい、そのことをはっきり覚えている。
私はずっと、前に立つ側だった。誰かを庇うことはあっても、誰かに庇われることなんてないと思っていた。
だから余計に、あの一瞬が胸に残ってしまう。
その時、目の前にいてくれた人。
あの人は、自分がしたことを少しも誇らない。
困る。
本当に困る。
こんなふうに誰かのことを何度も思い返すのは、たぶん初めてだった。
今まで、付き合うとか好きだとか、そういう話を聞くたびに、少し不思議だった。
学園では、誰と誰が付き合ったとか、休み時間にそんな話がよく出る。
放課後に二人で帰る姿を見かけることもあったし、文化祭のあとに告白したとか、そういう噂も何度も耳にした。
私も、何度も告白されたことはある。
手紙をもらったことも、放課後に呼び止められたこともあった。
けれど、そのたびに思ったのは嬉しさよりも先に、どうしてそんなふうに誰か一人を特別に思えるのか、という不思議さだった。
その様子を見ても、私はずっとどこか他人事みたいに感じていた。
明日になれば、また会う。
月光草のことを話すために。
ママのことを話すために。
それだけのはずなのに。
明日また顔を見るのだと思うと、胸の奥がほんの少しだけ落ち着かなかった。
私だけじゃない。あの人もまた、家族のために異世界へ入っている。
そう思った瞬間、昼間まであった距離が少しだけ変わった気がした。
黒い画面に映る自分の顔は、思っていたより少しだけやわらかかった。
私は小さく目を伏せる。
まさか。
まだ、そんなはずはない。
そう思うのに、否定しきれない自分がいた。
端末を胸の近くに引き寄せて、そっと息を吐く。
指先で、さっきのやり取りを少しだけ上へ辿る。
『迷惑ではありません』
『話しました。羽賀登野さんは?』
『そうですか』
どれも短い。
いつもの私なら、それで十分だったはずだ。
必要なことだけ伝える。
余計な感情は挟まない。
それで困ったことなんて、今までなかった。
なのに今日は、自分で送った文のひとつひとつが妙に気になる。
特に、あの一文。
――羽賀登野さんは、誰にでもああなんですか。
あんな聞き方をしたのは初めてだった。
誰にでも、ではなかった。
その答えに、少しだけ安心した自分がいたことも、ちゃんと分かっている。
おかしい。
月光草のことだけ考えるべき夜に、どうしてこんなことを気にしているのだろう。
それでも、履歴を消そうとは思わなかった。
黒い画面に戻る直前までその名前を見つめて、私はようやく端末を伏せる。




