霧の宮
視界一面の霧は、晴れる気配すら感じさせない。
一向に変化しない景色に、依弦の不安が最高潮を迎えそうになった時、ようやく石造りの鳥居が見えた。
「ほら、ここだよ!」
場違いに明るいむつみの声と共に、わずかに霧が晴れる。
見えたのは、そこまで広くない神社の境内と、古い拝殿、その脇に建てられたボロい社務所だった。
思わず警戒した依弦だったが、境内に咲いた花々や木々に手入れが行き届いていることに気付く。少なくとも、放置されているわけではないらしい。
「依弦ー!こっちだよー!雨降ったらやだし、早くおいでー!」
社務所の引き戸の前で、むつみがこちらに手を振っている。
霧は薄れてこそいたが、晴れてはいない。
それでも依弦は、むつみの待っている方へ、足を踏み出した。
「あの、ここは——」
「霞末神社っていうんだって。ここが一番霧が濃いのにねー」
心を読んだかのように、むつみは答える。そのタネが分からない依弦は、黙り込むしかなかった。
視界の端にちらちら映る、お茶の湯気。
まだ淹れたてで熱いにも関わらず、むつみはそそくさとそれに手をつけていた。案の定「あつっ!」という声と共にじたばたしていたが。
古い外観に反して、社務所の中は小綺麗だった。
畳や板間こそ年代を感じさせるが、掃除が行き届いているため汚らしい印象は無い。鴨居のトラツグミは精巧に作られていて、今にも鳴き出しそうだ。
和室の中でも、かなり良い造りなのだろう。
胃を締め付けられるような緊張に、汗が伝い落ちていくのを感じる。
「依弦?どうしたの?お腹痛い?」
またしても、むつみは依弦の思考を読んできた。
驚いて顔を上げると、そこにはきょとんとした顔の彼女がいるだけだった。
「願い事」と口にした時の、超然とした何かは、やはり感じられない。
「……僕は、ここにいていいんですか?」
自然と零れた言葉が、湯気をわずかに揺らす。
その言葉に、むつみがこちらを見た。上品な所作で、湯のみを持ったまま固まっている。
「——僕は、むつみさんに何も返せないのに。誰の役にも立てないし……」
それ以上は、紡ぐ言葉が無かった。
大きく息を吐いて、黙り込む。
むつみは何も言わず、何かが腑に落ちないと言わんばかりに考え込む。湯のみを置く音が、思ったよりも大きく響く。
しばらく、無音が耳を突き刺し続けた。
「——役に立つ、ってさ」
それを引き裂いたのは、むつみの声だ。
「濃い霧は、人の役に立つかな?多分、邪魔だよね?」
唐突な言葉に、依弦は思わず顔を上げた。
「霧は自分が邪険にされてるって知ってる?知ってたとして、『じゃあおいとまするねー』って消えるかな?そもそも、人からどう思われてるかを考えるか——」
「あ、あの……?」
困惑を隠せず、思わず待ったをかけた依弦を、むつみの目が射抜く。
「依弦、さっきからずっと言ってる。役に立つとか立たないとか」
ずばりと言い当てられ、依弦は固まる。しかし、それを気にせず、むつみは続ける。
「それに私、役に立つのがそんなに大切なのか、よく分かんないし。この世の大半のものは、そこにあるだけだと思うけど……それよりも、依弦はどうしたいの?」
「——どうしたい?」
問い返す依弦に、むつみはこくんと頷いてみせた。
「だって、せっかく存在してるんだよ?役目も大切だとは思うけど、やりたいことだって同じくらい大切でしょう?ずーっとお仕事ざんまいじゃ疲れちゃうよ」
彼女は至極当然なことを言うように、軽い調子だった。
それに対して黙り込んだのは、彼女の思想に感銘を受けたから——ではない。
(僕が、どうしたいか……?)
答えが、何一つ思い浮かばない。
役に立ちたい、というのはあるかもしれない。しかしそれは、仕事や義務感に近いものだ。
だとしたら、自分は何がしたいのだろう?
「……普通で、いたい?」
苦し紛れに零れた言葉に、一拍遅れて苦い顔をした。今思えば異常だった日々を思い出し、苦い感情が広がっていく。
「……ふつー?ふつーってなあに?何かの鳴き声?」
むつみのすっとぼけた発言が無ければ、嫌な思い出まで掘り返されるところだった。
「あの、むつみさん……?」
「だって、私ここから出ないんだもん!フツー、って鳴く生き物なんて見たことないよ」
「それ、生き物のことじゃないんですが——」
どう説明したものかと悩んでいる間に、むつみは「えー?じゃあしーらないっと」と興味を無くしてしまった。あまりのマイペースぶりに、呆然とせざるを得ない。
しかし、それと同時に笑いが込み上げてきた。
理由なんて分からない。ただ、突拍子もない行動を取る彼女と過ごすのは、とても心地が良い。
ふと外を見ると、霧が薄れて空が見えていた。山にまとわりつくような白はまだ残っているが、他の色彩が戻って来つつある。
「あ、霧晴れてきたね。これなら日暮れまでには下りられそう!」
むつみがぱっと顔を上げて、楽しそうに言う。
彼女のように、いちいち悩まずに生きていくのは、まだ難しい。
それでも、彼女の生き様というか、在り方を見ているのは、依弦にとっても得難い経験なのは確かだ。
思い出したように、依弦は湯呑みに口をつける。柔らかい緑茶の風味を、心の底から楽しめたのは、いつぶりだろう。
薄霧というだけでも、山道はとても歩きやすかった。
分厚い落ち葉の層や、人の頭大の落石がゴロゴロ落ちているのを見ると、よくこんなところを歩けたものだと、登ってきた時の自分に驚いてしまう。
「依弦ー。もうちょっとでどーろ?だよー」
先導するむつみの歩は軽やかだ。裾の長く、足が見えない袴では歩きづらいだろうに、それを一切感じさせない。それどこか、気を抜くと置いていかれてしまいそうだった。
「ごめんなさい。本当はもう少し居たかったんですけど——」
「いいの!ここに長く留まるのは良くないと思うし。ほら、そーなん?神隠しって言われるの、嫌でしょ?」
あっけらかんと話すむつみに、依弦は口元を緩める。彼女は時々、随分と古風なことを言うな、と今更気付いた。
やがて、何となく見覚えのある道に出た。山に入る際に使った道だ。
(あ、もう着いたのか……)
帰れたことを残念に思っている自分に、驚いてしまう。せいぜい数時間過ごした相手との別れを、名残惜しいと思うなんて。
それでも彼女の言う通り、ここに留まり続けるわけにもいかないだろう。学校を休むわけにも、養父母を心配させるわけにもいかないのだから。
「あの」
その前に、どうしてもむつみに聞いておきたいことがあった。
悩んで、躊躇う依弦の背を押したのは、「どうしたいの?」と問うた、彼女の姿だ。
「——また、来てもいいですか?」
空気の音がする。むつみが、息を飲んだ音だった。
彼女はわずかに目を見開き、じっと依弦を見つめていた。それはすぐに、花咲くような笑顔へ変わる。
「うん!またおいで!願い事があったら、また教えて——」
その声はなぜか、遠い。
突如、酷い耳鳴りが依弦を襲う。視界がぐにゃりと歪み、真っ直ぐ立っていられなくなった。
何が起きたか分からず、混乱することすら出来なかった。ただ、不快な感覚に揉まれ続け——。
鬱蒼とした木々が、法面の上から突き出している。
それが分かるようになったのは、むつみと別れてからどれくらい経った頃だろうか。
「——?」
先程までの不快感は、すっきりと消え失せていた。
少し目線を下げると、立ち入りを禁じるような鎖があった。剥げかけの塗装で「無断の立入りを禁ず」と書かれたプレートが、だらしなく揺れていた。
そこまで見て初めて、依弦は眼前の山が何か、思い至った。
「……ここ、雨霧山か……!?」
納得と共に、驚きと畏れが湧き上がる。
老若男女問わず、誰一人とて雨霧山には入らない。
暗黙の了解というやつだろうか。とにかく誰もがこの山を避けるのだ。
(だとしたら、むつみさんは何で山の中に……?)
それだけはどうしても、分からない。
神社を管理するため、という可能性もあるが、どうにも腑に落ちない。というか、若い女性一人で住むには、雨霧山は険しすぎる。
生温い風が、依弦の頬を撫でる。
それでも、むつみの笑顔は、脳にまとわりついて消えなかった。さながら、晴れない霧のように。




