迷い霧とむつみ
自分の足元を覆う程に、その山は霧深い。
険しく視界も不明瞭な中を、そのことに気付いていないかのように、黙々と歩く人影があった。
この山は禁域のように扱われており、普段ならば誰も立ち入らないにも関わらず、だ。
まだ生地の張りがしっかりとした学ランに、教科書がぎっちりと詰まったリュックサック。履きなれないローファーで、落ち葉と落石混じりの道を行く彼の息は荒いが、足が止まることは無い。
仮に立ち止まったとしても、彼は決して顔を上げないだろう。
それにすら、他者の役に立つ者の特権だと、頑なに思い込んでいるのだから。
山に入ってから、どのくらい経ったか分からない。
依弦は一度立ち止まり、ポケットからスマホを取り出そうとした。
しかし、心配のメッセージや、委員会の連絡が入っていたら嫌だと思い直してやめた。わずかに息を吐いて、疲れを誤魔化そうとする。
別に、学校で嫌なことがあるとか、養父母との折り合いが悪いとか、そういうことは一切ない。
友達もそれなりに出来たし、養父母は自分のやりたいことを尊重してくれる。そのこと自体は喜ばしいことだ。
しかし、それらに対して何も返すことが出来ない自分に、何の役にも立てない自分に、それを受け入れるだけの何かがあるのだろうか。
その問いに対する答えは、未だに出せない。
ただ、役に立ってみせなければ、いずれ落胆され、見捨てられてしまう気がしていた。
「……」
重苦しい気持ちに支配され、ため息すらつくことが出来ない。
息苦しさが、依弦に逃避を選ばせた。
とにかく、誰の目にもつかず、日常から離れられる何かが欲しかった。
霧が、一段と深くなった気がした。視界一面の白が、依弦の感覚を奪っていくように感じられた時だ。
さく、と音がした。
びっくりして顔を上げると、いつの間にか人が立っていた。
思わず息を飲んだ。しばらく思考が止まり、呆然とその人を見つめてしまう。
正しい形容が思いつかなかったのだが、近い言葉で表すなら、その人はとても綺麗だった。
癖が一切ない、長くて真っ直ぐな黒髪も、艶やかで引き込まれる瞳も、それを縁取るまつ毛も、全てが調和していた。顔立ちも精巧な人形のように整っていて、現実味が薄く感じられる。
着ているのは真っ白な着物だった。それが無ければ、依弦は彼女の性別すら分からなかったかもしれない。目に痛い程白い袴は、山道を歩いたとは到底思えなかった。
思わず見とれかけていた依弦に対して、彼女はじっとこちらを見つめていた。きょとんとした顔、という表現がぴったりで、その目は好奇心できらめいているように思えた。
やがて、彼女はトテトテとこちらに歩いて来た。思わず身構えた依弦だったが、お構い無しに目の前に立った。
「ねえ、その服なあに?たくさんボタンがついてて…何だか窮屈そうだね」
女性の第一声はそれだった。ずっこけそうになったが、彼女の質問は止まらない。
「その鞄なあに?背負子って布製だっけ?……あ、もしかして迷子?珍しいね。最近人間も見てないのに——」
「あ、あの……?あなた、は——」
このまま質問攻めにされたら、多分いつまでも話が進まない。
そう悟った依弦は、無理やり話を変えようと試みる。普段やらないことに、無駄に心臓が鳴る。
決して、彼女の色香にやられたからではない。そう信じたかった。
幸い功を奏したようで、彼女は一旦口を閉じた。
「あ、お名前?私はむつみ。それ以外は分かんないや」
彼女はにこやかにそう言った。「むつみ……」と反芻すると、再び彼女が口を開く。
「君は?君も名前、あるでしょ?」
「……雨夜依弦、です」
「イヅルかー。何だかかっこいい名前だね!迷子くんなのに」
一言余計だが、とりあえず彼女の素性——は分からないが、悪い人ではないだろうというのは分かって、わずかに警戒を解く。
というより、今この瞬間も依弦の服装や荷物に興味を持っているむつみを見ていると、到底彼女が危険人物とは思えない。
「……あ。依弦、迷子だったよね!?ごめんね引き留めちゃって……でもどうしよう、今は霧が深すぎるし……」
「……いいです」
思わず、そう呟いていた。
「……帰っても、僕は誰の役にも立てないから……」
零れた本音が、霧に紛れていく。
このまま、自分も霧の中に消えてしまえばいいのに。そう思って、この山を歩き続けてきた。
「……帰らないの?帰りたく、ない?」
むつみにそう聞かれても、言葉を返すことが出来ない。返す資格すら、自分には無いように思えてならない。
「——それは、願い事?」
突然、むつみはそう言った。
顔を上げると、彼女は茫洋とした様子だった。その目は依弦を見ているようで、どこも見ていない。
虚ろにも思えるその目に、無性に惹き付けられた。理由は分からないが、どうしても目を離せなかった。
「……願い事、です」
ぼんやりした頭でそう答え、我に返る。依弦もむつみも何も言わず、しばらく沈黙が流れる。
霧の流れる音が聞こえそうな程の静けさを破って、むつみが口を開く。
「……そっか。なら、一旦私のとこおいでよ。気が済んだら、ちゃんと帰らないとだめだからね?」
その口ぶりははっきりしたもので、先程の超然とした気配は消え失せていた。
踵を返して歩き出す彼女の背を、依弦はしばらく眺めていた。迷いは当然あって、しかし自分がどうしたいのかも分からなかった。
一瞬の躊躇いの後、長くその場に留まっていた足を、一歩進める。
霧の向こうに紛れつつあるむつみを追って、依弦は歩き始める。
彼女を追いかけた理由を、依弦は自覚していなかった。




