〈霧津美〉伝承
この高校に、本を読むために図書館を利用する生徒などいない。
自習室と成り果てた部屋の、隣の部屋。主に図書委員が使うその部屋に、依弦はいた。
今日は依弦のクラスが図書当番だったが、もう一人の生徒の姿は無い。
雨夜さん、と柔らかな声がする。
「いつもありがとうね。田崎さんは……相変わらずねえ」
苦笑いを浮かべた先生に、依弦も力なく笑うことしか出来なかった。
真っ先に図書委員に立候補しておきながら、田崎が図書当番をしたことは一度も無い。
今日だって、部活が忙しくてと理由をつけて、図書だよりの発行を依弦に丸投げして去っていった。しかし彼は所属クラブでも幽霊部員らしいので、恐らく直帰したのだろう。
諦めと、ほんの僅かな憤りが、ふつふつと湧き上がる。
——願い事があったら、また教えて。
耳の奥で鳴ったのは、雨霧山で最後に聞いた声。
むつみの柔らかな笑みと、猫のような自由さを思い出すと、どろりとした感情が洗い流されていく気がした。
同時に、やりたかったことを思い出す。
「あの、先生。霞末神社って知ってますか……?」
唐突に質問された先生は、軽く目を見開いた。しかしうーん、と考え込み、申し訳なさそうに口を開く。
「聞いたことがないなあ。ごめんね雨夜さん。授業か何かの調べ物?」
「あ……いえ。気になっただけ、です」
語尾を濁しながら、依弦は禁域扱いの雨霧山のことを考えていた。
禁域の山、その中に佇む古い神社。
(……いかにも、って感じだよな……)
帰り道、市の図書館に立ち寄ろうと考えたのは、その時だ。
市立日霞図書館本館は、二階建てのこぢんまりとした建物だ。
外装こそ年代を感じさせ、案内板の塗装も剥げ落ちてしまっているが、内部は改装したこともあって真新しい。
慣れた様子で図書館へ入った依弦は、さっそく郷土資料コーナーを探して二階へ上がる。
しかし、閲覧席の前を通りかかった依弦の足が、はたと止まる。
「……依弦くん?来てたんだ」
その声に、依弦はそっと笑って頷いた。声の主は気のいい笑顔を共に、手を軽く振っている。
「小川さん。今日は自習ですか?」
彼の向かいの椅子を引きながら、依弦は尋ねてみる。小川詠司は頷き、手元のノートを広げてみせた。
「うん。ゼミの課題でね。この近辺の伝承について調べたくてさ」
「あ……それならちょうど良かった。ちょっと相談したいことがあって」
そう切り出して、依弦は霞末神社や雨霧山について調べたいということを伝えた。むつみのことも話そうかと悩んだが、何となく後ろめたくて、結局伏せたままにした。
詠司はその話を興味深そうに聞いていたが、やがてスマホ片手に何かを調べながら、こう言った。
「雨霧山か……この近辺の人は、山に入らないどころか話題にもしたがらない。確かに、気になるよね」
黙って頷いた依弦は、帰り際のことを思い返していた。
酷い耳鳴りと、視界の異常。
単なる体調不良とも思えない、奇妙な感覚。そして、記憶が無いと話すむつみ。
(むつみさんは何のために、あの山に……)
「まあ、とりあえず調べてみよう。図書館なら資料の一つくらいあるよ、きっと」
そう言って立ち上がった詠司を、依弦は慌てて追いかけた。民俗学を専攻しているという彼は、こうした話が大好きなのだ。
「——とりあえず、このくらいかな。思ったより少なかったけど……」
机の上に並べられた資料を見て、詠司は苦笑いを浮かべる。依弦もまた、苦い顔をするしかなかった。
雨霧山に関する話をあまり聞かないことと関係があるのか、資料の数も少なかったのだ。
レファレンスサービスを利用して、関連資料も集めようとしたが、そもそも雨霧山や霞末神社を取り扱った本が少ない、という結果に終わった。
「これじゃ調べ物にならないんじゃ……」
「まあまあ!紙の資料が残ってないなんてザラだからさ。とりあえず読んでみようよ」
意気消沈する依弦を励ますように、詠司は本を手に取った。和綴じのそれは、表紙に無数のシミが出来ている。
本を読み始めた彼の邪魔をしないように、依弦は横からそっと本を覗き込む。
ミミズが這ったような読みづらい文字が並ぶそれは、内容がほとんど読み取れない。見た事の無い漢字もいくつか混ざっている。
しかし、ページが捲られる直前、小さな挿絵が見えた。
実在の人物とは思えないような、美しい容貌。山を覆う霧をあしらったかのような着物。
その絵はむつみを描いたものに見えた。
ページが捲られ、詠司が何やら読み解いている間も、その衝撃はそう簡単に無くならなかった。
「——何か、すっきりしないな」
詠司はそう呟き、あるページを依弦に見せる。何と書かれているのかは分からないが、微かに霞末神社の表記が見えた。
「明治時代の終わりから、大正の始めにかけて、神社の神と人間が争ったって話が書かれてる」
息が、一瞬詰まる。窓ガラスが一瞬、ガタリと鳴った。
「雨霧山の神——〈霧津美〉って書かれてるけど、彼女は山を霧で閉ざし、人間が入ると呪い殺すとされていたらしい。それを重く受け止めた拝み屋や祓い屋——除霊を生業にする人たちが、彼女を倒そうとしたそうだ」
語られる話は、漫画やアニメなどの話に聞こえた。現実で起こった話だとは、到底信じられない。
それなのに、作り事には思えないのだ。
「多くの犠牲が出た、って書かれてる。この年は自然災害の無い、穏やかな年だったらしいから、災害の犠牲者を神の責任にしたとは思えない」
だけど、と一旦詠司は話を区切る。依弦の様子を案じたのか、彼は力無く笑う。
「文明開化後に神と人間が争うって聞いても、何だかしっくり来ないよな。あの山は険しい上に霧が出やすいから、遭難者が多いそうだ。そうした被害を止めるための、教訓話みたいなものかもしれないけどね」
彼はきっと、近代になって神と人間の戦いに関する記録が残されていることに対して、依弦が驚いたと思っているのだろう。
実際、驚きはある。神仏の存在や権威が揺らいだ後の世界に、おとぎ話としか思えないような記録を残す理由だって、依弦には分からない。
しかし動揺の理由は、それではないのだ。
(霧津美——むつみ?むつみさんと、同じ名前……?)
——ふつー?ふつーってなあに?
——だって、私ここから出ないんだもん!
——ここに長く留まるのは良くないと思うし。
無邪気な声が、朗らかな笑顔が、鮮やかに思い出される。
彼女が危険な存在だとは、人を害する存在だとは、到底思えない。
——うん!またおいで!
そう笑ったむつみが、もしこの資料に出てくる〈霧津美〉と同一の何かだとしたら?
「——依弦くん?顔青いけど、体調悪い?」
「……え?あ……いや、何でも……」
詠司の声で我に返った依弦だが、もやもやとした気分は晴れない。
詠司はしばらく依弦を見つめていたが、やがてため息をついた。今一度資料に目を落とし、ぽつりと呟く。
「……まあ、伝承の意義は色々あると思うよ。でも暗黙の了解が未だに残ってるのも変な話だよなあ」
それが何に対して向けられたものか、嫌でも分かる。
窓ガラスの向こうで、木が揺れていた。ざわめきは聞こえない。無音の映画を見ているようで、現実味が感じられない。
(作り話なら——)
そう願いたい理由を、依弦は説明出来ない。
音のない雨が、依弦の肩を僅かに濡らす。
折りたたみ傘を持つ手を伝う雫を、依弦はぼんやりと眺めていた。
『僕はもう少し残るよ。僕なりにあの山について調べてみたくなったし』
詠司は今も、古文書や資料と向き合っているのだろう。
専門的な知識も、突出した才能も無い自分では、雨霧山や神社について調べることすら、労力も時間もかけなければならない。
知りたいこと一つ、自力で調べられない自分が、惨めに思えてならなかった。
「……雨?」
穴でも空いているのか、傘を持つ手はびしょ濡れだった。袖にもシミが出来ている。
『霧津美——霞末神社の神は、雨をもたらす神とも伝えられているみたいだ。山の恵みを制限する一方で、里に雨をもたらすから、人々は食にありつけたんだとか……』
別の資料に書かれていたことを読み上げる詠司は、どんな顔をしていたか。
「……むつみさん」
零れた声が、水溜まりに落ちた。靴が濡れて、足が冷えていく。
(もう一度、あの人に会いたい)
自分の目で、確かめなければいけない気がした。
——どうして他の子と違うことするの!?
急に怒鳴られた気がして、肩が大きく跳ねた。その拍子に傘が滑り落ち、水溜まりに波紋が広がる。
耳を塞いでいた。周囲を見渡したが、誰もいない。雷だって鳴ってはいなかった。
思い出さないようにしていた記憶が、吹き出しただけだ。
「……今の僕は、他の人と違うことをしてるんだ……」
誰かの許しを得なければ、それを許されない気がした。
雨が強まり、音が奪われていく。
寒いのは、雨に濡れただけではない。
そんなことすら、依弦には分からなかった。




