第34話|あなたの子が欲しい
息長帯姫が目を覚ましたのは、翌日の夕方でした。
「……ああ、良かった!」
目を開けた帯姫の顔を覗き込んでいたのは、豊姫でした。
神託の後、帯姫は深い眠りに落ちていました。
どれほど眠っていたのかも分かりません。
「豊姫……?」
「ずっと眠っていたのですよ。心配しました」
豊姫はほっとしたように笑いました。
帯姫は身体を起こそうとしました。
「無理をなさらないでください」
「大丈夫です。もう平気です」
そう言うものの、身体にはまだ重さが残っています。
豊姫は帯姫の側を離れませんでした。
食事を持ってくるよう他の女に頼み、やがて足仲津彦天皇を呼びに行かせました。
しばらくして、食事が運ばれてきました。
帯姫は少しずつ口に運びます。
食べ終えた頃でした。
「天皇がお見えになりました」
足仲津彦が部屋へ入ってきました。
豊姫たちは顔を見合わせると、静かに部屋を出ていきました。
帯姫と足仲津彦、二人きり。
足仲津彦は、帯姫の側に座ります。
やがて、静かに尋ねました。
「大事ないか?」
「ええ、私は……もう大丈夫です」
そう答えた帯姫でしたが、足仲津彦の顔を見ると、胸の奥が詰まりました。
昨夜、死の宣告を受けた人。
それなのに、今はこうして自分を気遣ってくれている。
その優しさが嬉しくて、そして悲しくて、帯姫は泣きそうになりました。
足仲津彦は、そんな帯姫をじっと見つめていました。
そして、少しためらうように口を開きました。
「……念のために聞くのだが」
「はい」
「そなたは、すでに身ごもっているようなことはないか?」
「えっ……?」
帯姫の顔色が、怒りで赤く変わりました。
「まさか!そんなことはございません!」
思わず声が大きくなります。
「そ、そうか」
足仲津彦は、帯姫の剣幕にたじろぎました。
「なら、良かった」
しばしの間、二人の間に沈黙が落ちました。
やがて、帯姫が俯きました。
「……あなたの代わりに天皇になる子なんて……」
声が震えます。
「私は、産みません」
足仲津彦は絶句しました。
何らかを言おうと口を開けては閉じます。
何を、どう伝えれば良いのか。
俯く帯姫をしばらく見つめ、ふーとため息をつき、意を決して立ち上がります。
足仲津彦は帯姫を寝所に突き飛ばし、帯姫の両手首をまとめて掴み、帯姫の頭の上に拘束し、床に押し当てました。
そして、耳元で低く言いました。
「産まぬ、と申すか。......だがな、帯姫。男には、女の意思など構わず、子をなすことができるのだ」
血の気がひく帯姫。
はっ、はっ、と浅い呼吸しか出来ません。
足仲津彦はそおっと、帯姫の手首を掴んでいた手を離し、その手で帯姫の身体をなぞります。
そして、悲しそうに笑いました。
「……今日は、もうよい」
そう言って帯姫から離れ、部屋から出ようとしました。
「お待ちください!」
帯姫が呼び止め、足仲津彦の背中に縋りつきました。
「違うのです」
やがて、震える声で言いました。
「私は、産みたくないのではありません」
目には涙が浮かんでいました。
「初めての夜も……あなたが嫌だったからではありません」
足仲津彦は黙って聞いています。
「あなたが死ぬ未来が、見えたから……ただそれが、怖かったのです」
帯姫の頬を涙が伝いました。
「あなたのこと、ずっとずっと、お慕いしております」
足仲津彦は、何も言いません。
帯姫は涙を拭い、そしてゆっくりと、腕を足仲津彦の腰に回しました。
「私だって、本当はずっと……あなたの子が欲しいと思っていました」
足仲津彦は、自分の腰に巻き付いた帯姫の腕に自分の手を重ねました。
「……誠か?」
帯姫は、神妙な面持ちで大きく頷きました。
けれど、足仲津彦の表情は次第にほころんでいきます。
その場でくるりと身体の向きを変え、帯姫と向かい合わせになりました。
「誠に誠か?帯姫は、たまに嘘をつくからなぁ」
「……もう!これは嘘ではありません」
帯姫は困ったように顔を赤らめました。
足仲津彦の冗談のおかげで、張り詰めていたものが少しずつほどけていきます。
足仲津彦も、嬉しさを隠すように小さく息を吐きました。
「もう、嘘だと言っても、止められぬからな」
足仲津彦は、帯姫をそっと抱きしめました。
帯姫もまた、その胸に身を預けます。
長い間、二人の間にあったものが、ようやくほどけていきました。
次回、第35話「残された時間」。
熊鷲討伐の準備が進む中、神託によって天皇の残された時間を知る武内宿禰は、その後の時代に思いを巡らせる。




