第33話|譲れぬもの
神の言葉が途切れた後、息長帯姫は、しばらく何も言いませんでした。
ただ、呆然としたように天を見つめ、やがて、その身体から力が抜けました。
「帯姫!」
へなへなと崩れ落ちる帯姫を、足仲彦天皇は咄嗟に抱き留めました。
帯姫は何も言いません。
天皇はそのまま両腕で抱き上げ、静かに帯姫の自室へ向かいました。
部屋へ入ると、そっと床に寝かせます。
帯姫の顔は青ざめてはいましたが、命に関わる様子はありませんでした。
天皇は帯姫の傍らに座り、その寝顔を見つめながら、先ほどの神の言葉を思い返していました。
『……私が死んだら、誰が次の天皇になるのだ?』
『この大后が産む子だ。その子は宝を得るであろう』
帯姫が産む子。
その子が、次の天皇になる。
だが――。
その子の父親は、誰であろうか。
足仲津彦は、やがて立ち上がります。
帯姫をひとり残し、静かに部屋を出ました。
そして、ひとり自分の部屋へ戻りました。
『天皇は、近いうちに死ぬ。海の向こうの宝を得ることはない』
その言葉が、何度も頭の中を巡っていました。
父の顔が、浮かびました。
父――日本武尊。
偉大な父でした。
幼い頃から、足仲津彦はその背中を追ってきました。
父のようになりたい。
父に負けたくない。
父が果たせなかったものを、自分こそが成し遂げたい。
そんな思いを胸に、天皇となってからも、足仲津彦は己を律してきました。
弱音を吐かない。
私情を挟まない。
天皇なのだから、それが当然だと思っていました。
けれど――。
「……我には初めから、そんな器はなかったということか」
誰に言うでもなく、足仲津彦は呟きました。
頬を、一筋の涙が伝いました。
それを拭おうともせず、ただ俯いていました。
やがて、涙が止まりました。
不思議なことに、胸の奥にあった重苦しさが、少しだけ軽くなっていました。
もう、無理して背伸びすることもないか。
そう思いました。
父の背中を追い続けることも。
偉大な天皇になろうとすることも。
自分に残された時間が短いのなら――。
「我に出来ることをするまでだ」
足仲津彦は静かに顔を上げました。
翌朝。
天皇は武内宿禰を呼びました。
「熊鷲を討つ」
武内宿禰は、黙って天皇を見ました。
「軍を整えよ。熊鷲一族を、このまま筑紫にのさばらせておくわけにはいかぬ」
「はっ」
天皇の声には、迷いがありませんでした。
昨日までの天皇とは、どこか違っていました。
何かを諦めたようにも見えます。
けれど、その目には、かえって静かな強さが宿っていました。
足仲津彦は続けます。
「それから、一隊は女だけで編成せよ」
「女だけ、でございますか?」
「うむ。帯姫を守るための隊だ」
足仲津彦は、まっすぐに武内宿禰を見て言いました。
「お主も含め、男は一人たりとも帯姫に近づけるな」
淡々とした命令でした。
声を荒らげたわけでもありません。
怒っているわけでもありません。
ただ、その目の奥に、いつもの静かな目とは違うものがありました。
鋭く、ぎらりと光るもの。
武内宿禰は、天皇が何を恐れ、何を望んでいるのか理解しました。
「……承知いたしました」
深く頭を下げ、そして行動に移しました。




