第32話|神は嘘をついている
七日七晩の神楽が終わった、その次の晩のこと。
香椎宮の庭に、足仲彦天皇と息長帯姫は並んで座っていました。
空には、無数の星が輝いています。
「神楽、良かったな。特に豊姫の踊りが良かった」
「ええ。あの子にあんな才能があったなんて」
帯姫は笑って言いました。
「私も、踊りの伴奏となる楽器が何か弾けたら良かったわ。何か習おうかしら」
「琴なら我も弾けるぞ」
「まぁ」
天皇は人を呼び、自室から琴を持って来るよう命じました。
「それにしても、磯良が出て来てくれて良かったな」
「ええ、本当に。」
「今日は早速、航海の話をしたのであろう」
「はい。興味深い話が多くございました。……磯良の話では、内海と外海では、海の渡り方がまるで違うそうです」
帯姫が空を見上げながら言いました。
「内海ならば、朝に出て、日が暮れる前にはどこかの港へ入ります」
「しかし、朝鮮半島や大陸へ向かうとなると、そうはいかぬな」
「はい」
天皇も星を見上げました。
「夜の海を渡ることになる」
「それ故、船頭たちにも星を読む術を覚えてもらう必要があるそうです」
「それでは、航海にはまだ時間がかかりそうだな……」
天皇が次の言葉を切り出そうとした時、武内宿禰が琴を運んできました。
天皇は琴の前に座り、弦に指を置きます。
静かな夜の庭に、琴の音が響き始めました。
帯姫は黙って、その音を聞いていました。
やがて曲が終わると、天皇は琴に手を置いたまま、ふっと息を吐きます。
「……ところで、熊鷲のことだが」
天皇は、香春岳や古処山の状況と、さらに、不弥国の者から聞いたことも話しました。
「熊鷲一族は徐々に勢力を広げている。まだ数は少ないが、不弥国でも襲われる者が出て来ているそうだ。不安がっておった」
不弥国は、香春岳とも古処山とも比較的近い位置にあります。
熊鷲を恐れるのも無理はありません。
「このまま野放しにしておくと犠牲者も増える。我は熊鷲を撃とうと思うが、いかがか?」
その瞬間でした。
久方ぶりの感覚。
帯姫に、天皇が熊鷲の矢に射られる姿が見えました。
「ああっ!」
どうすれば回避出来る?
そう思い、その光景に目を凝らして、詳しい時間や場所を探ります。
この時間にこの場所が駄目なら、それを避けて、こちらからはどうだろうか。
帯姫は、見えた未来の先を何度も追いました。
けれど、どこへ逃れても、どの道を選んでも、最後には熊鷲の矢が天皇に突き刺さります。
「帯姫、大丈夫か?……神託が、降りてきているのか?」
青ざめた顔で、じっと虚空を見つめて喘ぐ帯姫に、天皇は不安そうに寄り添います。
「熊鷲は、良くない……」
無理だ、と帯姫は思いました。
どう頑張っても、熊鷲に立ち向かおうとする限り、天皇の死は避けられそうにありません。
では、どうすればいい。
熊鷲を討とうとしなければ、天皇は死なないのではないか。
ならば……。
海の向こうに行こう。
国内のことは捨て置いて、海の向こうへ。
そうすれば、熊鷲と戦わずに済む。
『このまま野放しにしておくと犠牲者も増える。』
確かにそうかもしれない。
でも、だからといって天皇を死なせるわけにはいかない。
『ごめんなさい』
心の中で謝ると、帯姫は顔を上げ、必死に声を絞り出して言いました。
「どうして兵を挙げて討つ必要がありましょう。まばゆいばかりの宝が、海の向こうにあります。宝を手に入れれば熊鷲も、自然と服従します。わざわざ危険を冒して戦う必要はありません」
「……誠か?」
頷く帯姫を、天皇はじっと見つめてしばらく考えていました。
そして、言いました。
「神は、嘘をついている」
あまりにもキッパリと言い切る様子に、側に控えていた武内宿禰の方がギョッとしました。
今まで、帯姫がどんなことを言おうと素直に従っていたのに、一体どうしたことか、と。
帯姫も驚きました。
しかし、天皇の言葉を聞いているうちに、胸の奥にあった思いが、少しずつ形を変えていきました。
そうだ。
神は、嘘をついているのだ。
天皇が死ぬなど、嘘に決まっている。
これまで神を信じてきた。
神の声に従ってきた。
そのために、自分の個人の望みも、恐れも、普通の人が送る人生も捨ててきた。
けれど――。
天皇の命まで捨てろというのなら。
そんな神など、もう信じない。
天皇が死ぬなんて、嘘だ。
そう思った瞬間でした。
身体が、全く自分の意思では動かせなくなりました。
「神を疑うか」
わははははは、と、帯姫の身体を使って神が笑いました。
「天皇は、近いうちに死ぬ。海の向こうの宝を得ることはない」
「なっ……」
それを聞いた天皇は、息を呑みました。
しばらく黙って、帯姫の姿をした神を見つめています。
そして、ぽつりと言いました。
「……我が死んだら、誰が次の天皇になるのだ?」
その言葉に、神も思わず面食らったようでした。
天皇は、死にたくないとは言いません。
なぜ死なねばならぬのかとも問いませんでした。
自分が死ぬことよりも、その後の国のことを案じている。
神にとっては、それが意外でした。
神は、しばし黙ってから答えました。
「この大后が産む子だ。その子は宝を得るであろう」
次回、第33話「譲れぬもの」。
神に自らの運命を告げられた足仲津彦は、残された時間の中で何をすべきかを考えます。




