第31話|志賀浜の神楽
奴国へ入った足仲彦天皇と息長帯姫を、奴国の長となった名草が出迎えました。
先代の長が亡くなったのは、つい最近のことです。
その跡を継いだばかりで、名草自身も、自分がまだ長として未熟であることをよく分かっていました。
だからこそ、名草は天皇に期待していました。
これからの筑紫を守るには、一つの国だけが力を持つのではなく、天皇を中心に、それぞれの国が力を合わせていく必要がある。
名草は、そう考えていました。
「大王、お待ちしておりました。奴国へようこそお越しくださいました」
名草は深々と頭を下げます。
「こちらこそ、世話になる。これから、この地で力を貸してもらいたい」
「もちろんでございます。私も、皆と力を合わせ、この筑紫をより良いものにしていきたいと思っております」
名草は真っ直ぐに天皇を見つめました。
その言葉に、足仲彦天皇は静かに頷きました。
しかし、名草には一つ、気がかりなことがありました。
「……ただ、申し訳ございません」
名草が、少し言いにくそうに口を開きます。
「阿曇磯良のことですが……」
「ああ」
天皇が答えます。
「呼んではみたのですが、やはり出て来ようとはしませんでした」
名草は申し訳なさそうに頭を下げました。
「せっかく大王がお越しくださったというのに……」
「よいのです」
帯姫が言いました。
「おそらく、そうなるだろうと思っていましたから。今さら謝ることはありません」
阿曇磯良。
奴国の中でも、特別な存在でした。
年齢は誰も正確には知りません。
ただ、長い年月を海と共に生きてきたことだけは確かでした。
海の流れを読み、風を読み、星を読む。
どの季節に、どの風が吹くのか。
夜の海で、星の位置から自分たちがどこにいるのか。
見知らぬ海へ出た船が、どこへ向かえば帰ってこられるのか。
航海の知識と経験において、磯良の右に出る者はいません。
古くから奴国に伝わる知識を蓄え、海の向こうの国々についても、誰より多くを知っている。
まさに、生き字引ともいうべき老人でした。
長年、磯良は持衰を務めてもいました。
髪を梳かず、虱を取らず、衣服を垢で汚れたままにし、肉を食べず、女を近づけず、喪に服す者のように過ごす。
海へ出る者たちの無事を祈り、その身を慎んでいるのです。
そのため、磯良は人前に姿を現すことも少なくなっていました。
名草が言葉を続けます。
「磯良は、海のことなら何でも知っております。大王が海を渡られるのであれば、これほど頼りになる者は他におりません」
「分かっています」
帯姫は答えました。
「だからこそ、どうしても仲間になってもらいたいのです」
そして、ふと思い出したように続けます。
「そうそう。伝えておかなければなりませんね」
「はい?」
「不弥国から、楽団を連れてきました」
名草が目を丸くしました。
「楽団……ですか?」
「ええ。磯良は神楽を好むのでしょう?」
帯姫が微笑みます。
「ならば、試してみましょう」
それから、神楽が始まりました。
一日。
二日。
三日、四日と過ぎても、神楽の音は途切れません。
七日七晩。
海に向かって舞い、海の恵みに感謝を捧げる。
そして、海へ流れ込む水を育み、海の恵みをもたらす山にも感謝を捧げる。
笛の音が響き、太鼓が鳴る。
不弥国の人々だけではありません。
帯姫たちも、様々な舞手を用意していました。
その中でも、特に人々の心を掴んだのが、八人の乙女による舞でした。
色とりどりの衣をまとった八人が、息を合わせて舞います。
志賀島の人々は、たちまちその舞に夢中になりました。
そして、その中の一人、豊姫。
帯姫の妹でした。
豊姫が舞う時は、いつも明るい笑顔がこぼれています。
その笑顔につられるように、見ている人々の顔にも笑みが浮かびました。
最初は静かに見ていた人々も、次第に手を叩き、身体を揺らします。
子どもたちは舞手の真似をして踊り、大人たちも酒を手にして笑い声を上げます。
神々への感謝から始まった祭りは、いつの間にか、人々が共に楽しむ宴へと変わっていきました。
そして七日目。
ひととおりの舞が終わると、あちこちから声が上がります。
「もう一度!」
「豊姫様、もう一度!」
「まだ終わるな!」
豊姫は、困ったよう、でも嬉しそうに笑いました。
「では、もう一度!」
豊姫が一人で舞い踊ります。
軽やかに舞い、くるりと身を翻すと
「おおおっ!」
大きな歓声が上がりました。
それに負けじと、太鼓の音が強くなります。
豊姫もますます楽しそうに舞います。
すると――。
「俺たちも踊ろう!」
誰かが叫びました。
「そうだ!」
「踊ろう、踊ろう!」
一人が立ち上がると、また一人。
あっという間に人の輪ができました。
豊姫を囲むように、島の人々が手を取り合って踊ります。
歓声が上がります。
笑い声が響きます。
笛も太鼓も、止まりません。
踊る者が増えるたび、輪は大きくなっていきました。
もう、誰が舞手なのか、誰が見物人なのかも分かりません。
ただ皆が笑い、声を上げ、身体を動かしていました。
そして――。
いつの間にか、その輪の中に、一人の老人が混ざっていました。
顔には、白い布。
誰もかれも、特に気に留める様子もなく踊り続けます。
けれど、帯姫だけは気づきました。
「……磯良」
その老人こそ、阿曇磯良でした。
帯姫は、騒がしい輪の中へ、そっと近づいていきました。
白い布で顔を覆った老人。
間違いありません。
阿曇磯良です。
帯姫が近づいてくるのに気づくと、磯良は少し身を引きました。
自分の姿が、どれほど汚れているのか。
磯良自身が、一番よく分かっていたからです。
「……近づかれぬほうがよろしい」
磯良が静かに言いました。
「やつがれは長く持衰を務めております。髪も梳かず、身体も清めず、顔身体にはフジツボまだついている、そんな有様です」
帯姫は、そんな磯良をじっと見つめました。
そして、微笑みます。
「汚くなんてありません」
「……」
「あなたが清らかな人だということを、私は知っています」
磯良は、少し驚いたように帯姫を見ました。
「海に出る人々のために、長い間、自分を慎んできたのでしょう?」
磯良は答えませんでした。
ただ、白い布の奥の目が、少しだけ揺れました。
しばらくして、磯良は静かに口を開きます。
「……やつがれは、古い人間です。昔のことばかり知っております。昔はこうだった、昔はああだったと」
磯良は、少し寂しそうに笑いました。
「今の世の中で、やつがれの知識がどれほど役に立つものか……」
帯姫は、静かに聞いていました。
「貴女も大王も、海を渡るためにやつがれを必要としておられるのでしょう。しかし、あまり期待なさらぬほうがよろしい」
磯良は帯姫から目を逸らしました。
「やつがれは、もう昔のようには動けません。お役に立てるかどうかも分かりませぬ」
帯姫は、しばらく黙って磯良を見ていました。
そして、穏やかに言いました。
「あなた一人に、何もかも背負わせようなんて思っていません」
磯良が顔を上げます。
「安心してください。出来ることを、出来る範囲でいいのです」
帯姫は微笑みました。
「少しだけでも、力を貸していただけたら……私は嬉しい」
磯良は、しばらく何も言いませんでした。
やがて、その目から少しだけ緊張がほどけていきます。
「……さすれば」
磯良は、ゆっくりと手を伸ばしました。
「微力ながら、お供いたしましょう」
帯姫の手を取ります。
そして、初めて穏やかな笑みを浮かべました。
その顔には、先ほどまでの警戒も、諦めもありませんでした。
久しぶりに、人と共に何かを成そうとする男の顔でした。
帯姫は微笑みます。
「よろしくお願い致します」
笛の音と、太鼓と、人々の笑い声が、夜の志賀島に広がっていきました。
遠い海の彼方。
その道を知る老人が、ようやくその輪の中に加わったのです。
次回、第32話「神は嘘をついている」
香椎宮の星空の下、帯姫は天皇に訪れる死を予見する。




