第30話|筑紫へ
筑紫へ拠点を移すことになり、足仲彦天皇は先に豊浦宮を発ちました。
息長帯姫は、残された者たちへの指示や引き継ぎなどを済ませてから、後を追うことになりました。
天皇は熊鰐の船に乗り、筑紫へ向かいます。
山鹿岬を巡り、岡水門へ着いたところで、熊鰐が天皇に言いました。
「大王、奴国へ向かわれる前に、しばらくこちらにお留まりいただけないでしょうか」
「何かあるのか?」
「はい。大倉主と菟夫羅媛をはじめ、この地の者たちは、まだ大王のことをよく存じません」
熊鰐は、言葉を選ぶように続けました。
「大王がこの地を支配し、我らを奴隷のように扱うのではないかと、不安に思っている者もいるようです」
天皇は黙って海を見つめました。
筑紫島には、もともとこの地で暮らしてきた国々があります。
そこへ、自分たち畿内の、ヤマトの王がやって来たのです。
自分たちの土地や暮らしが奪われるのではないか。
これまで大切にしてきたものを、軽んじられるのではないか。
そう思うのも無理はありません。
「……なるほどな」
天皇は、彼らの気持ちを察しました。
「それならば、急いで通り過ぎることもあるまい。しばらく、この地に留まろう」
そして、天皇は倭国から連れてきていた伊賀彦に命じました。
「この地の産土神を祭ろう」
「はっ!」
祭りが行われると、土地の人々は少しずつ心を開いていきました。
自分たちの土地の神を大切にしてくれる。
その姿を見て、人々の間にあった不安も、少しずつ和らいでいきました。
それから数日後。
帯姫も豊浦宮を発ち、洞海を経由して岡水門へ向かっていました。
ところが、こちらも思うようには進みません。
「……止まったの?」
引き潮のため、船が進めなくなってしまったのです。
帯姫は、思わずため息をつきました。
「先に行った大王の船も、どこかで止まったと聞きましたけれど……」
仕方なく、潮が満ちるのを待つことになりました。
すると、船の近くにある池に、魚や鳥が集まっているのが見えました。
「これは……?」
どうやら、熊鰐が前もって用意していたもののようです。
魚や鳥を眺めているうちに、帯姫の苛立ちもいつの間にか消えていきました。
その時でした。
どこからともなく、笛と太鼓の音が聞こえてきました。
「……何の音でしょう?」
「不弥国から来た者たちだそうです」
笛と太鼓を携えた一団が、川の上流から船でやってきました。
「大倉主様と菟夫羅媛様が、大王と大后を歓迎するために呼んでくださったそうです」
帯姫は、音のする方を眺めました。
「歓迎してくれているのですね」
「はい。大王がこの地の神を祭ってくださったことで、皆も安心したのでしょう」
楽団と共に帯姫は、天皇の待つ岡田宮へ行きました。
岡田宮で、一団の一人の男が進み出てきて言いました。
「お願いがございます。もし阿曇磯良様を説得しに行かれるのであれば、ぜひ我々も連れて行って下さい」
天皇と帯姫は少し驚きました。
「あなたたちを?」
「はい。磯良様は神楽がお好きなのです」
そう言って、男は笑いました。
「我々なら、きっと磯良様にも気に入っていただけるでしょう」
不弥国と奴国は、古くからつながりの深い国です。
かつては共に海を渡り、大陸へ向かったこともありました。
奴国が最も栄えていた頃の記憶を、今も受け継いでいる者たちです。
「磯良様はいまだに、あの頃のことが忘れられないのでしょう」
「もう、三百年ほど前の話でしょう?」
「ええ。ですが、磯良様は何百年、何千年も生きておられるという噂もあります」
「何千年?」
帯姫が目を丸くすると、男は苦笑しました。
「いえ。おそらく、それくらいの知識を蓄えているということでしょうが」
帯姫は、思わず笑いました。
海辺には、笛と太鼓の音が静かに響いていました。
筑紫へ移ったばかりの帯姫達にとって、ここからが、新たな始まりでした。




