第35話|残された時間
熊鷲を討つための軍議が開かれていました。
集まった者たちの前で、足仲彦天皇は地図を広げ、その上に指を置きます。
「まずは田油津姫を救い出す。何よりも、それを先にする」
そこに異論を挟む者はいませんでした。
田油津姫が羽白熊鷲の屋敷に囚われていることは、すでに知られていました。
「そのうえで、羽白熊鷲の屋敷に火をかける」
兵たちの間に、ざわめきが起こります。
「火をかけるだけでは、熊鷲を倒せぬのでは?」
「無論だ」
天皇は答えました。
「熊鷲の一族は、良い武器を多く持っている。正面から兵をぶつければ、こちらにも大きな被害が出る。だから、できるだけ直接は戦わぬ方向で行きたい」
天皇は屋敷の周囲を指でなぞりました。
「田油津姫を救い出した後、屋敷に火を放つ。うまくいけば、熊鷲らが逃げ出す前に火が回る」
「しかし、火が燃え広がれば、すぐに気づかれましょう」
「そうだ。だから、火責めだけで殺せなかった場合の用意もする」
足仲彦天皇は続けます。
「火をかけたことに気づいた熊鷲が屋敷から出てくる。そこを射る。……私が射ようではないか」
天皇はにやりと笑いました。
塵輪との戦いを思い出し、兵士達は歓声をあげます。
「しかし、今回は我だけではなく複数の者で狙う。屋敷のどこから出てくるかも分らぬし、熊鷲一族も多くいるからな」
その声には、迷いがありません。
「ただし、今いる者だけでは少ない。もう少し兵を集める必要がある。それから、羽白熊鷲の屋敷に出入りしている者の中に、こちらへ引き入れられそうな者がいる。今、その手筈を整えているところだ。それが済むまでは動かぬ」
天皇は皆を見渡しました。
「それまでは、弓の扱いに慣れておけ。狙いを定め、射る。それを繰り返せ。いざという時に外せば、こちらの命取りになる」
「はっ!」
兵たちが一斉に頭を下げます。
「では、今日はここまでとする」
軍議が終わり、兵たちはそれぞれ散っていきました。
足仲彦天皇も、その場を後にします。
しばらくして、天皇の姿が見えなくなると、兵たちは雑談を始めました。
「最近の大王、なんだか変わったよな」
「変わったって、どういうふうに?」
「いや……前より、いきいきしてないか?」
「ああ、分かる。前はいつも難しい顔をしていたのに、最近はよく笑っておられる」
「何か良いことでもあったのかねぇ」
兵たちが笑い合います。
その少し離れたところを、武内宿禰が歩いていました。
足を止めることもなく、兵たちの話に耳を傾けます。
「しかし、大后はどうしたんだ?」
「最近、まったくお姿を見ないな」
「目の保養がなくなって悲しいな」
「こら。聞かれたらどうする」
「でも、病でも患われたのか?」
「一時期、体調を崩されていたと聞くけど……」
「今は女だけで身の回りを固めているらしいぞ」
「なんで?」
「さぁ」
武内宿禰は、それ以上聞くことなく、その場を離れました。
誰も知らない。
先日の神託のことを知っているのは、大王と大后。そして――我だけ。
そう思うと、武内はわずかに口元を緩めました。
足仲彦天皇は、神から死を告げられた。
それだというのに、落ち込むどころか、以前よりも精力的になっている。
不思議なものだ。
これまでの大王は、いつもどこか自分を卑下しているように見えた。
偉大な父、日本武尊の背中を追い続け、自分には何かが足りぬと思っているようだった。
だが、武内宿禰は知っている。
今の足仲彦は、決して凡人などではない。
死という終わりが見えたことで、迷う必要がなくなったのだろう。
終わりの見えぬ道を歩き続けるより、残された時間が分かっている方が、かえって心は楽なのかもしれない。
それに――。
武内は、息長帯姫のことを思います。
これまで、大王は大后との間に子をなそうとしていた。
だが、大后はそれを拒んでいた。
大王が、それをひどく気にしていた。
あのこともまた、大王が自分を認められぬ理由の一つだったのかもしれない。
だが、今は違う。
今の大后は、大王を受け入れているのだろう。
だからこそ、大王はあれほど明るい顔をしている。
夫婦の仲が良いことは、良いことだ。
二人の間には、きっと子が生まれる。
その子が――次の大王になる。
武内宿禰は、そこで更に先の未来を考えます。
生まれてくる皇子のそばには、誰を置くべきか。
自分の縁者、またはそこに都合の良い人物を置きたい。
本来ならば、皇太子の側には襲津彦を置くつもりだった。
だが、襲津彦はすでに誉屋別王の方へ回してしまった。
誉屋別王は大王と大后の養子。大王と大后の子のとして、皇太子とするつもりだった人物。
天皇にならない未来が決まったからといって、今さら襲津彦を動かすわけにもいかない。
他にも自分の子はいる。
だが、それぞれに役目がある。
他の勢力の動きを探らせている者もいれば、各地で重役についている者もいる。
今さら動かしたくはなかった。
「……さて」
武内は小さく呟きました。
新たに生まれる皇子が、いずれ次の大王になる。
神がそう告げたのだから、それは間違いない。
今まで、帯姫が口にした神託が外れたことはない。
だが、全て人が神託をすんなり受け入れるわけではない。
よって、その子がすんなりと大王になれるとは限らない。
香坂王もいる。
忍熊王もいる。
ほかにも、天皇に近い血筋の者は多い。
自分こそが大王になるべきだと考える者はいるだろう。
何より、生まれたばかりの子が大王になることになる。
幼すぎることを理由に、別の者を推す者が出てもおかしくはない。
その時、どうするか。
武内宿禰は考えました。
そして、ふっと息を吐きます。
「……まあ、今から考えても仕方がない」
まずは、目の前のことだ。
羽白熊鷲を討つ。それが先だ。
今は大王が指揮を執っている。
だがおそらく、この戦は大王が羽白熊鷲を討つより先に終わる。
大王が死ぬ。
その後、誰が指揮を執るのか。
誰に何を伝え、誰を動かし、どうすれば新たに生まれる皇子を大王の座へ導けるのか。
そこまで考えている者は、今のところ自分しかいない。
武内宿禰は、わずかに目を細めました。
大王が生きているうちは、大王の命に従えばよい。
だが、大王が死んだ後のことまで考えるなら――。
「……我が、考えておかねばならぬな」
その顔には、大王を案じる忠臣の色だけではありませんでした。
次の時代に、自分がどこに立つべきなのか。
そのことまで、武内宿禰はすでに考え始めていたのです。
次回、第36話。
熊鷲から救い出された田油津姫は、天皇への想いを募らせ、やがて帯姫への嫉妬を抱き始める。
お楽しみに。




