第28話|あの日の選択
塵輪が襲ってきた時、足仲彦天皇は夏羽たちに鉄の武器を求めていました。
けれど、届けられた武器は少なく、十分なものではありませんでした。
使者を送り、鉄の生産がどうなっているのか確かめさせました。
しかし、返ってくるのは曖昧な報告ばかり。
ならば、自分の目で確かめるしかない。
そう考えた天皇は、自ら田川へ視察に向かうことにしました。
約五年ぶりに見る香春岳は、以前とはまるで違う場所になっていました。
前に訪れた時は、夏羽が自ら案内してくれました。
採掘の様子も、鉄を取り出す工程も、こちらが尋ねれば気さくに説明してくれたものです。
けれど今回、夏羽の姿はありませんでした。
天皇一行を案内したのは、採掘場の責任者でした。
「危険ですので、あまり長くはお見せできません」
そう言って、責任者は採掘場を足早に案内していきます。
足仲彦天皇が辺りを見回している間にも、掘り出されたものが次々と運び出されていきました。
以前なら、この近くに製鉄所がありました。
しかし、今は違います。
「製鉄所は、荷持田村の方へ移されました」
責任者はそれだけ告げると、また先を急ぎました。
採掘場では、今も多くの人が働いています。
けれど、以前のような活気はありませんでした。
働く者たちは皆、口数が少なく、顔も暗い。
汗を流しながら黙々と働いている者。
俯いたまま、重い荷を運んでいる者。
そこには確かに人がいて、仕事も動いている。
それなのに、妙に静かでした。
天皇は、ふと周囲を見回しました。
羽白熊鷲の配下らしい者たちが、こちらを見ています。
天皇に対して何かを言うわけではありません。
けれど、その目には明らかな警戒がありました。
好意を持って迎えているわけではない。
それだけは、言葉にされなくても分かりました。
香春岳を離れた天皇一行は、そのまま夏羽の屋敷へ向かいました。
五年前と同じ屋敷。
けれど、出迎えた夏羽の様子は、以前とはまるで違っていました。
天皇の姿を見るなり、夏羽の肩が小さく跳ねます。
「……大王」
以前は堂々としていた夏羽。
それが今は萎縮して、目を合わせようともしません。
「久しいな、夏羽」
「は、はい……」
「鉄のことで聞きたいことがある」
「鉄……でございますか」
夏羽の顔が、わずかに引きつります。
「どうした?」
「いえ……」
夏羽は視線を落としました。
「夏羽」
「……はい」
「何か困っているのではないか?」
夏羽は、天皇は自分を責めに来たのだと思っていました。
しかし、顔を上げた先にあった天皇の顔には、怒りも責める様子もありませんでした。
ただ、心配そうに自分を見つめています。
「……」
しばらく黙っていた夏羽は、とうとう小さく息を吐きました。
「……実は……」
そして、重い口を開きました。
五年ほど前。
天皇が筑紫を巡行し、豊浦宮へ戻る直前のことでした。
夏羽も田油津媛も、天皇と田油津媛が結ばれ、次代の天皇となる子を儲けることを望んでいました。
けれど、天皇は、二人に言いました。
「田油津姫と羽白熊鷲。お前たちが手を取り合いこの地を盛り立てていってくれれば、この地も安泰だ」
羽白熊鷲――。
この地で「熊鷲」と呼ばれる者たちを率いる男です。
夏羽たちにとっては残念な話でしたが、熊鷲にとっては願ってもない話でした。
田油津媛は、先々代の天皇の娘。
その田油津媛と羽白熊鷲が夫婦になるということは、熊鷲にとって、自分達の地位を一気に押し上げることでした。
熊鷲は、以前にも増して威張るようになりました。
もともと気性の荒い男でした。
人の上に立つことを好み、力で相手を従わせることにもためらいがない。
それが、田油津媛との婚姻によって、さらに強くなってしまったのです。
それでも、しばらくの間は、香春岳には活気がありました。
鉄を求める者が集まり、製鉄の仕事も盛んになっていきました。
やがて羽白熊鷲は言いました。
「ここでは手狭だ。もっと広い場所へ移そう」
そうして製鉄所は、古処山を背に熊鷲一族が力を強めている土地、荷持田村へ移されることになりました。
夏羽たちも、その時は悪いことだとは思いませんでした。
もっと鉄を作ることができる。
もっと多くの人を使うことができる。
そうすれば、この地はさらに栄える。
最初のうちは、本当にそう見えました。
けれど、やがて様子が変わっていきました。
夏羽の目の届かぬ場所で、熊鷲は労働者を酷使しました。
休むことも許さず、働かせる。
過労や、不注意による事故で死ぬ者も出て来ました。
それでも、熊鷲はやり方を変えませんでした。
労働力が足りなくなれば、近隣から人を強引に連れて来て、補充していきました。
逃げようとする者もいました。
抵抗する者もいました。
そんな者たちを、熊鷲は容赦なく斬ったのです。
新しく作った剣の試し切りだ、と。
夏羽は、何度か熊鷲に警告しようとしました。
けれど、強くは言えませんでした。
もともと熊鷲一族は、武に長けた屈強な者たちでした。
そこへ、製鉄所を荷持田村へ移したことで、さらに事情が悪くなりました。
田川で鉄を作っていた頃なら、夏羽たちも直接その場へ入り、様子を見ることができました。
しかし今では、香春岳から採れた鉄は荷持田村へ運ばれてきます。
そこで鉄は熊鷲一族の手に渡り、鉄製品へと加工される。
つまり、夏羽たちの手元へ鉄製品が届くまでには、どうしても熊鷲一族を通らなければならないのです。
熊鷲は、質の良い鉄剣を独占するようになりました。
夏羽の手元に届くのは、純度も練度も低い粗悪品ばかり。
武力の面でも、夏羽は不利な状況に陥っていました。
それでも、どうにか持ちこたえていられたのは、田油津姫がいたからでした。
羽白熊鷲は田油津姫に惚れ込んでいました。
田油津姫が羽白熊鷲のそばにいて、直接、言葉をかければ、羽白熊鷲はそれを聞きました。
どれほど気性が荒くても、田油津姫の言葉だけは無視できなかったのです。
しかし、田油津姫の方は、羽白熊鷲を嫌っていました。
野蛮な男と見下していたのです。
結婚する前は、利用価値のある男だと思っていました。
自分の言うことを聞くところだけ、好ましく思っていました。
けれど、妻になることは、心底嫌でした。
「あんな野蛮で穢らわしい男がどうして私と釣り合うっていうの?気持ち悪い。早く死んでくれないかしら」
ある時、侍女たちにそう話しているのを、羽白熊鷲本人に聞かれてしまいました。
その瞬間から、羽白熊鷲をとめるものはなくなりました。
田油津姫を自分の屋敷に軟禁し、その要望にも耳を貸さなくなりました。
自分の言うことに少しでも不快な反応を示せば、暴力を振るうようになったのです。
「あの田油津姫も、今は羽白熊鷲の屋敷で大人しく過ごしていると、様子を見に行った者からは聞いています。ただ、その者も田油津姫に直接会ったわけではないため、実際はどうしているのやら確かではございません」
天皇は、しばらく黙っていました。
田油津姫自身も、自分との婚姻を望んでいました。
武内宿禰も、それが良いとして天皇に勧めてきていました。
それでも、天皇は田油津姫との婚姻を選びませんでした。
もし田油津姫を妃にすれば、息長帯姫の立場はどうなるのか。
田油津姫との間に子が生まれればなおさら、帯姫の正妻としての立場が危うくなってしまいます。
天皇は、それを避けたかったのです。
だから、田油津姫には羽白熊鷲との婚姻を勧めました。
二人が手を取り合えば、この地は安泰になるという考えも、決して嘘ではありませんでした。
けれど――。
その選択の先で、田油津姫は羽白熊鷲に囚われています。
自分が帯姫を守ろうとして選んだことが、田油津姫を苦しめる結果になりました。
天皇の胸に、重い後悔が込み上げました。
「……助けねば」
天皇は、古処山の方角を見つめました。




