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神功皇后 ― 海を越える巫女王 ―  作者: 筑前由紀
第三章 運命の岐路

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第28話|あの日の選択

塵輪《じんりん》が襲ってきた時、足仲彦天皇《たらしなかつひこのすめらみこと》は夏羽《なつは》たちに鉄の武器を求めていました。

けれど、届けられた武器は少なく、十分なものではありませんでした。


使者を送り、鉄の生産がどうなっているのか確かめさせました。

しかし、返ってくるのは曖昧な報告ばかり。


ならば、自分の目で確かめるしかない。


そう考えた天皇は、自ら田川へ視察に向かうことにしました。





約五年ぶりに見る香春岳《かわらだけ》は、以前とはまるで違う場所になっていました。


前に訪れた時は、夏羽が自ら案内してくれました。

採掘の様子も、鉄を取り出す工程も、こちらが尋ねれば気さくに説明してくれたものです。


けれど今回、夏羽の姿はありませんでした。


天皇一行を案内したのは、採掘場の責任者でした。

「危険ですので、あまり長くはお見せできません」

そう言って、責任者は採掘場を足早に案内していきます。


足仲彦天皇が辺りを見回している間にも、掘り出されたものが次々と運び出されていきました。


以前なら、この近くに製鉄所がありました。

しかし、今は違います。


「製鉄所は、荷持田村《のとりたのふれ》の方へ移されました」

責任者はそれだけ告げると、また先を急ぎました。


採掘場では、今も多くの人が働いています。

けれど、以前のような活気はありませんでした。


働く者たちは皆、口数が少なく、顔も暗い。

汗を流しながら黙々と働いている者。

俯いたまま、重い荷を運んでいる者。


そこには確かに人がいて、仕事も動いている。

それなのに、妙に静かでした。


天皇は、ふと周囲を見回しました。


羽白熊鷲《はじろくまわし》の配下らしい者たちが、こちらを見ています。

天皇に対して何かを言うわけではありません。

けれど、その目には明らかな警戒がありました。

好意を持って迎えているわけではない。

それだけは、言葉にされなくても分かりました。




香春岳を離れた天皇一行は、そのまま夏羽の屋敷へ向かいました。


五年前と同じ屋敷。

けれど、出迎えた夏羽の様子は、以前とはまるで違っていました。


天皇の姿を見るなり、夏羽の肩が小さく跳ねます。


「……大王《おおきみ》」


以前は堂々としていた夏羽。

それが今は萎縮して、目を合わせようともしません。


「久しいな、夏羽」

「は、はい……」

「鉄のことで聞きたいことがある」

「鉄……でございますか」


夏羽の顔が、わずかに引きつります。


「どうした?」

「いえ……」

夏羽は視線を落としました。


「夏羽」

「……はい」

「何か困っているのではないか?」


夏羽は、天皇は自分を責めに来たのだと思っていました。

しかし、顔を上げた先にあった天皇の顔には、怒りも責める様子もありませんでした。

ただ、心配そうに自分を見つめています。


「……」


しばらく黙っていた夏羽は、とうとう小さく息を吐きました。


「……実は……」


そして、重い口を開きました。




五年ほど前。

天皇が筑紫を巡行し、豊浦宮へ戻る直前のことでした。


夏羽も田油津媛《たぶらつひめ》も、天皇と田油津媛が結ばれ、次代の天皇となる子を儲けることを望んでいました。


けれど、天皇は、二人に言いました。


「田油津姫と羽白熊鷲。お前たちが手を取り合いこの地を盛り立てていってくれれば、この地も安泰だ」


羽白熊鷲――。

この地で「熊鷲」と呼ばれる者たちを率いる男です。


夏羽たちにとっては残念な話でしたが、熊鷲にとっては願ってもない話でした。


田油津媛は、先々代の天皇の娘。

その田油津媛と羽白熊鷲が夫婦になるということは、熊鷲にとって、自分達の地位を一気に押し上げることでした。


熊鷲は、以前にも増して威張るようになりました。


もともと気性の荒い男でした。

人の上に立つことを好み、力で相手を従わせることにもためらいがない。

それが、田油津媛との婚姻によって、さらに強くなってしまったのです。


それでも、しばらくの間は、香春岳には活気がありました。

鉄を求める者が集まり、製鉄の仕事も盛んになっていきました。


やがて羽白熊鷲は言いました。

「ここでは手狭だ。もっと広い場所へ移そう」


そうして製鉄所は、古処山《こしょさん》を背に熊鷲一族が力を強めている土地、荷持田村へ移されることになりました。


夏羽たちも、その時は悪いことだとは思いませんでした。

もっと鉄を作ることができる。

もっと多くの人を使うことができる。

そうすれば、この地はさらに栄える。


最初のうちは、本当にそう見えました。

けれど、やがて様子が変わっていきました。


夏羽の目の届かぬ場所で、熊鷲は労働者を酷使しました。

休むことも許さず、働かせる。

過労や、不注意による事故で死ぬ者も出て来ました。

それでも、熊鷲はやり方を変えませんでした。

労働力が足りなくなれば、近隣から人を強引に連れて来て、補充していきました。


逃げようとする者もいました。

抵抗する者もいました。


そんな者たちを、熊鷲は容赦なく斬ったのです。

新しく作った剣の試し切りだ、と。


夏羽は、何度か熊鷲に警告しようとしました。

けれど、強くは言えませんでした。


もともと熊鷲一族は、武に長けた屈強な者たちでした。

そこへ、製鉄所を荷持田村へ移したことで、さらに事情が悪くなりました。


田川で鉄を作っていた頃なら、夏羽たちも直接その場へ入り、様子を見ることができました。

しかし今では、香春岳から採れた鉄は荷持田村へ運ばれてきます。


そこで鉄は熊鷲一族の手に渡り、鉄製品へと加工される。

つまり、夏羽たちの手元へ鉄製品が届くまでには、どうしても熊鷲一族を通らなければならないのです。


熊鷲は、質の良い鉄剣を独占するようになりました。

夏羽の手元に届くのは、純度も練度も低い粗悪品ばかり。

武力の面でも、夏羽は不利な状況に陥っていました。


それでも、どうにか持ちこたえていられたのは、田油津姫がいたからでした。


羽白熊鷲は田油津姫に惚れ込んでいました。

田油津姫が羽白熊鷲のそばにいて、直接、言葉をかければ、羽白熊鷲はそれを聞きました。

どれほど気性が荒くても、田油津姫の言葉だけは無視できなかったのです。


しかし、田油津姫の方は、羽白熊鷲を嫌っていました。

野蛮な男と見下していたのです。


結婚する前は、利用価値のある男だと思っていました。

自分の言うことを聞くところだけ、好ましく思っていました。


けれど、妻になることは、心底嫌でした。


「あんな野蛮で穢らわしい男がどうして私と釣り合うっていうの?気持ち悪い。早く死んでくれないかしら」

ある時、侍女たちにそう話しているのを、羽白熊鷲本人に聞かれてしまいました。


その瞬間から、羽白熊鷲をとめるものはなくなりました。


田油津姫を自分の屋敷に軟禁し、その要望にも耳を貸さなくなりました。

自分の言うことに少しでも不快な反応を示せば、暴力を振るうようになったのです。


「あの田油津姫も、今は羽白熊鷲の屋敷で大人しく過ごしていると、様子を見に行った者からは聞いています。ただ、その者も田油津姫に直接会ったわけではないため、実際はどうしているのやら確かではございません」




天皇は、しばらく黙っていました。


田油津姫自身も、自分との婚姻を望んでいました。

武内宿禰も、それが良いとして天皇に勧めてきていました。


それでも、天皇は田油津姫との婚姻を選びませんでした。


もし田油津姫を妃にすれば、息長帯姫《おきながたらしひめ》の立場はどうなるのか。

田油津姫との間に子が生まれればなおさら、帯姫の正妻としての立場が危うくなってしまいます。


天皇は、それを避けたかったのです。

だから、田油津姫には羽白熊鷲との婚姻を勧めました。


二人が手を取り合えば、この地は安泰になるという考えも、決して嘘ではありませんでした。

けれど――。


その選択の先で、田油津姫は羽白熊鷲に囚われています。

自分が帯姫を守ろうとして選んだことが、田油津姫を苦しめる結果になりました。


天皇の胸に、重い後悔が込み上げました。


「……助けねば」


天皇は、古処山の方角を見つめました。

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