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神功皇后 ― 海を越える巫女王 ―  作者: 筑前由紀
第二章  西国動乱

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19/19

第19話|誉屋別皇子

豊浦宮へ戻られてからも、足仲彦天皇たらしなかつひこのすめらみことが一つところに留まることはありませんでした。


筑紫の豪族たちとの会談。

海路の確認。

穴門から西へ、東へ。


ようやく戻られたかと思えば、また数日で発たれる。

そのような日々が続いていたのです。


息長帯姫おきながたらしひめは、それを責めようとは思いませんでした。

大王とは、本来そういうものなのでしょう。

国を巡り、人を結び、地を治める。

その務めがあることは、理解しておりました。


けれど、

静かな夜の宮で、一人火を見つめていると、胸の奥にぽっかりと空洞が残るのです。


ある夕刻。

天皇は珍しく、長く帯姫の部屋に訪れました。

風が簾を揺らし、灯火が静かに揺れています。


「帯姫」

不意に、天皇が口を開かれました。

その声音は、どこか言い淀むようでした。

「話しておかねばならぬことがある」


帯姫は静かに顔を上げます。

「……何でしょうか」

しばし沈黙が落ちました。


やがて天皇は、低く言います。


「吾に、もう一人子が出来た」

帯姫の指先が、わずかに止まりました。

「……御子が」

「ああ」

静かな肯定。

「伊勢の女との間に生まれた」


帯姫は何も言いません。

ただ、胸の奥が冷えていくのを感じていました。


最初の后との間に皇子がいることは、知っております。

けれど、自分と婚姻した後にも、他の女との間に子を成していた。

その事実は、理屈とは別のところで、帯姫の心を刺しました。


この時代、天皇が妃を複数持つことは珍しいことではありません。

複数の妃を持ち、沢山の子を持つのは、推薦されていることです。

だから、怒るのは違う。

責めるのも違う。

帯姫自身、それは分かっているのです。


けれど。

(……私は)

胸の奥に、小さな痛みが滲みます。

(私とは、なさらぬのに)

その言葉は、声にはなりませんでした。


拒んだのは自分です。

あの雪の夜。

怯え、身を強張らせた。

だから天皇が遠慮していることも、帯姫には分かっていました。

けれど今さら、どうすれば良いのでしょう。

どう言えば。

どう触れれば。

もう分からなくなっていたのです。


「母である弟媛おとひめは、子を産んで間もなく亡くなった」

天皇が続けられました。

「子は今、伊勢に残されておる」

その声音には、かすかな憂いがありました。

「……誉屋別ほむやわけと申す」

まだ幼い皇子に思いを馳せているのでしょうか。

それとも、もうこの世にはいない弟媛のことを、思い出しているのでしょうか。


「帯姫」

天皇は、まっすぐ帯姫を見ました。

「誉屋別を、そなたの養子としたいと思う」


帯姫は、すぐには答えられませんでした。

灯火が揺れています。

波の音が、遠くかすかに聞こえていました。


誉屋別という幼子に罪はない。

母を亡くした子を思えば、胸も痛みます。


大后としては、受け入れるべきなのでしょう。

それは分かっているのです。

けれど――


帯姫の胸を締めつけていたのは、別の感情でした。

(私とは……)

言葉にならない想いが、喉の奥につかえます。

天皇は、他の女のもとへは行かれた。

子を成し、その子を案じておられる。

それなのに、自分との間には、いまだ何もない。


あの夜以来、天皇は決して無理に触れようとはされません。

優しく、気遣うように距離を置いておられる。

その優しさが、苦しかったのです。


本当は。

もっと近くにいたい。

触れてほしい。

抱きしめてほしい。

他の誰かではなく、自分を求めてほしい。

けれど、そんなことを口にするのは、あまりにも恥ずかしくて。


帯姫は膝の上で、そっと指を握りしめました。

このままでは駄目だ、とも思っていました。

何も言わなければ、きっと天皇はこれからも遠慮されたままです。

けれど今さら、どう切り出せばよいのでしょう。


そのようなことを自ら願うなど、浅ましく思われはしないか。

胸が熱くなり、息が詰まりそうになります。

それでも。

帯姫は、勇気を振り絞るように顔を上げました。


「あの……」

声が、かすかに震えます。

天皇が静かに帯姫を見つめました。

その眼差しは穏やかで、だからこそ余計に、胸が苦しくなります。


帯姫は視線を逸らし、消え入りそうな声で言いました。

「……私も、子が欲しゅうございます」


言った瞬間、顔が熱くなりました。

それだけしか言えませんでした。


天皇は、一瞬目を見開かれます。

それから、心底安堵したように、ふっと表情を緩められました。


「そうか」


その声音は、どこか安心したようでした。

「それは良かった。誉屋別も、きっと喜ぼう」


帯姫は、自分の言葉が大きく空振りするのを感じました。


違う。

そうではないのです。


けれど天皇は、嬉しそうに続けられます。

「すぐに迎えに行ってやりたいところだが、幼いうちの長旅は命に関わる。幸い、弟媛の姉がしばらく養ってくれると言っているので、ある程度大きくなってから迎えに行こうと考えているのだか、それで良いだろうか」


帯姫は唇をきゅっと結びました。

今さら違うとは言えません。


「……はい」

小さく頷くしかありませんでした。


灯火が静かに揺れています。


帯姫は、その火を見つめながら、胸の奥へ言葉を押し込めました。


“あなたと私の子が欲しい”


その想いは誰にも届かぬまま、そっと胸に残り続けていました。

次回、第20話「穴門、開く」では


帯姫の予見通り穴門の海が変わり始め、熊鰐を巻き込んだ新たな海路の時代が動き出します。

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