第18話|大王の勤め
山門は、女山の麓に築かれた地でした。
かつて大乱を鎮めた女王も、この山へ籠り、神託を下したと伝わっております。
田油津姫は、女山を見上げながら言いました。
「ゆえに私は、この地を守る門を築きました。山門とは、その意味にございます」
そこには、豊前に築かれた長峡宮と同じような、立派な石垣が築かれておりました。
足仲彦天皇一行は田油津姫に導かれ、石垣内部にある館へ入りました。
館には、その夜、絶えず火が灯されていました。
高く掲げられた篝火。
炙られる魚や獣の肉。
香草と酒の匂い。
「さあ、大王。こちらを」
田油津姫は自ら酒を注ぎ、天皇の傍へ腰を下ろしました。
その所作には迷いがありません。
まるで最初から、この場の主であるかのようでした。
「筑紫の酒は、口に合われますか?」
「ああ。悪くない」
「それは良うございました」
田油津姫は、ふふ、と小さく笑います。
その距離は近く、袖が触れ合うほどでした。
宴の隅には、熊鷲たちの姿もありました。
ですが、彼らは大和の者たちとは交わりません。
酒を飲みながら、じっとこちらを見ている。
その視線の先にいるのは――田油津姫でした。
特に、最も大柄な男。
羽白熊鷲。
彼は、田油津姫が足仲彦天皇へ酒を注ぐ様子を、面白くなさそうに見つめております。
「……機嫌が悪そうだな」
武内宿禰が小さく呟くと、
田油津姫は、くすりと笑いました。
「すぐ直ります」
その言葉には、不思議な慣れがありました。
宴の間、田油津姫は絶えず場を回っておりました。
時には武内宿禰へ酒を注ぎ、
「宿禰殿ほどの御方が来てくだされば、この地も安堵いたします」
と柔らかく微笑みます。
あるいは家臣の腕へ軽く触れながら、
「皆様がおられるなら、筑紫もきっと一つになりましょう」
と囁く。
そう言われて悪い気のする者はおりません。
男たちは皆、頬を緩めていました。
宴の終わり頃。
田油津姫は席を立つと、熊鷲たちの方へ向かいました。
何を話しているかまでは聞こえません。
ですが羽白熊鷲は、先ほどまでの険しい顔を崩し、やがて大きく笑い始めます。
その肩へ、田油津姫が自然に手を置きました。
まるで長年連れ添った妹背のようでした。
武内宿禰は、静かにその様子を眺めております。
最初は気になっていたのです。
田油津姫は、自らが上に立つことを疑っていない。
その目には、明らかに“支配する者”の光がありました。
ですが――
敵意はない。
むしろ、こちらへ寄ってくる。
媚びるというほど露骨ではないものの、天皇側へ従う意思を隠そうともしない。
筑紫島は難しい土地でした。
山があり、海があり、豪族たちが割拠し、それぞれが誇りを持っています。
大和の理だけでは、収まりません。
だからこそ、こうした土地を束ねる者は必要でした。
しかも、それが天皇へ恭順を示しているのであれば、これほど都合の良いこともありません。
「……なるほどな」
宿禰は、ひとり小さく呟きます。
田油津姫は、その頃には再び天皇の隣へ戻っていました。
「大王」
「なんだ」
「この地は、お嫌いではありますまい?」
酒に濡れた声。
けれど、その目は酔っておりません。
足仲彦天皇は、少し考えるように周囲を見渡しました。
火。
山。
人々の熱。
大和とは違う荒々しさがあります。
「悪くはない」
そう答えると、田油津姫は嬉しそうに笑いました。
「それは何より」
その笑みは美しく、どこか獲物を逃さぬ獣にも似ております。
宴は夜更けまで続きました。
そして翌日。
田油津姫とは一旦離れ、一行は周辺を巡行することにしました。
しばらく歩いた後、武内宿禰がふと口を開きます。
「……息長帯姫尊を大后に据えられたのは、少々早かったやもしれませぬな」
足仲彦天皇の眉が、わずかに動きました。
「どういう意味だ」
宿禰は静かに続けました。
「帯姫尊を妃に迎えられたこと自体は、間違いなく良き判断にございます。敦賀を開き、海路を整え、渡来の者を惹き寄せる。その才は見事」
そこで、一度言葉を切ります。
「……されど、大后でなくとも良かったかと」
その声音だけが、しばし静かに響きました。
「前の后は既に亡く、今や帯姫しかおらぬ」
天皇は低く返します。
「何を申されます。大王となられた以上、これより先も妃は増えましょう。……いえ、増やさねばなりませぬ」
その声音は穏やかでしたが、揺らぎはありません。
「妃を迎え、子を成すこともまた、大王の務めにございます」
宿禰――武内黒男の脳裏に、ある男の面影がよぎっていました。
稚足彦。
黒男と同じ日に生まれた皇子です。
幼き頃より、二人は常に共にありました。
周囲から双子のようだと囁かれるほどに。
その縁あって、黒男は重く用いられ、稚足彦が13代天皇に即位されると、ついには大臣の位まで与えられたのです。
ですが、その御子は早くに亡くなりました。
稚足彦天皇の血は、そこで絶えてしまったのです。
12代天皇、大足彦天皇には、かつて三人の後継がありました。
日本武尊。
稚足彦。
そして、五百城入彦。
日本武尊が薨じ、稚足彦の御子も失われたとき、皇統が五百城入彦の流れへ移る可能性もありました。
もしそうなっていれば。
稚足彦との縁によって取り立てられた自分が、なお朝廷に重きをなしたかは分かりません。
けれど、日本武尊の御子である足仲彦天皇は違いました。
経験ある黒男を、そのまま大臣として側に置いたのです。
その恩を、武内は忘れてはおりません。
同時に――
この地位を、失うわけにもいきませんでした。
足仲彦天皇には既に二人の皇子がおります。
ですが、この時代、人の命はあまりにも脆い。
病ひとつ、戦ひとつで、血筋など容易く途絶えてしまいます。
だからこそ。
王の子は、多ければ多いほど良い。
それが武内宿禰の偽らざる本心でした。
宿禰は静かに続けます。
「田油津姫尊など、良き縁ではありませぬか」
足仲彦天皇は黙ったまま、視線を落とします。
「この地において、あれほどの勢を持つ姫は他におりますまい。しかも、大足彦天皇の血を引く御方」
宿禰の声は静かでしたが、その言葉には現実の重みがあります。
「帯姫尊は、確かに尊きお方。されど、大王家より五世離れております……それに、若くもない」
さらに続けました。
「田油津姫尊は若く、しかも天皇の孫にございます」
宿禰は天皇を見ました。
「天皇に連なる子を成すこともできましょう」
足仲彦天皇は、答えませんでした。
ただ、帯姫との夜を、思い出していました。
雪の夜。
触れた温もり。
けれどその先を、帯姫は拒みました。
怯えさせてしまった――そう思って以来、天皇はそれ以上を求めておりません。
その後も、共に過ごしながら、なお距離を残したまま。
宿禰がそのことを知れば、帯姫の立場はさらに弱くなる。
それが分かっていたからこそ、天皇は何も言えませんでした。
次回、第19話「誉屋別皇子」では、
弟媛の死によって残された誉屋別皇子を迎える中、帯姫は足仲彦天皇への秘めた想いと、自らも子を望む心に向き合います。




