第11話|葛城の春
足仲彦天皇が出立された後も、息長帯姫はすぐに船を出す気にはなれませんでした。
穴門で会おう――
そう約束したばかりだというのに、胸の奥には重たい影が落ちています。
もし近づけば、またあの光景を見てしまうのではないか。
矢に射抜かれ、血に染まる背を。
その恐ろしさに、帯姫の足は鈍りました。
紀伊国にとどまり、出立の時を量りかねていると、護衛に付いていた襲津彦が静かに進み出ました。大臣、武内宿禰の子で、まだ若いながらも気骨のある男です。
「葛城へ向かわれては、いかがでしょう」
帯姫が顔を上げると、襲津彦は続けました。
「母君も、妹君もおられます。お心を休めるには、何よりの場所かと」
葛城――
そこは、母、高額媛の出身地。
帯姫は、父とともに父の出身地にいることが多かったのですが、妹は母とともに葛城にいました。
帯姫はしばし考え、うなずきました。
「……そういたしましょう」
葛城に着くと、真っ先に駆け寄ってきたのは妹の豊姫でした。
「姉上!」
九つ下の妹は、今年十五。あどけなさを残しながらも、どこか凛とした面差しになっています。
「よく来てくださいました。お会いしたかったのです」
無邪気な笑顔に、帯姫の心がわずかにほどけました。
「大王は、賊退治に向かわれたと聞きました。まるでヤマトタケルの西征のようですね」
屈託なくそう言う豊姫に、帯姫はかすかに微笑みます。
「……そうね」
それ以上、言葉は続きませんでした。
代わって襲津彦が、天皇の勇ましい様子を語ります。
「大王は兵を鼓舞され、みずから賊を討つと仰せでした。実に頼もしい御姿でした」
「まあ、素敵」
豊姫の目が輝きます。
襲津彦もまた、少し照れたように笑いました。二人の間に、軽やかな空気が流れます。
帯姫はその様子を、少し離れたところから眺めていました。
楽しげに言葉を交わす若い二人。
自分もかつては、あのように屈託なく笑っていたのだろうかと、ぼんやり思います。
やがて、ひとしきり語り合った後、襲津彦は姿勢を正しました。
「また様子を見に参ります。それまで、どうかごゆるりと」
そう言って、一旦その場を辞しました。
豊姫はその背を見送りながら、ふと帯姫を振り返ります。
「姉上、次にご出立の際は、わたくしもお供いたします」
「どうして?」
帯姫が問うと、豊姫は少し首を傾げ、楽しげに笑いました。
「襲津彦様が、素敵だからです」
あまりにあっけらかんとした物言いに、帯姫は思わず目を見開きます。
豊姫はくすりと笑い、続けました。
「それに――」
少しだけ声を和らげます。
「姉上が、なんだかお寂しそうでしたので」
その言い方は、どこまでも軽やかでした。
深刻さを帯びることなく、
ただ、当たり前のことを口にしたように。
帯姫は、しばし妹を見つめました。
帯姫の口元に、やわらかな笑みが浮かびます。
「……そう」
そっと手を取ります。
「貴女が一緒なら、私も心強いわ」
豊姫の顔が、ぱっと明るくなりました。
「本当ですか?」
「ええ」
胸の奥に張りつめていたものが、
ほんの少しほどけていきます。
春の空気が、静かにやわらいでいました。
遠く離れた海の向こうで戦う天皇を思いながら、帯姫は新たな旅立ちの時を、静かに待ちます。
次回、第12話「集う縁」では
豊姫の導きによって新たな仲間が加わり、帯姫の旅はひとりのものではなくなっていきます。




