第10話|穴門で会おう
船は徳勒津宮を発ち、春の海を静かに進みます。
淡路島の南をかすめ、やがて吉備の浦へと入りました。
穏やかな入江に碇が下ろされ、帆がゆるやかに畳まれていきました。
足仲彦天皇は息長帯姫に手を差し伸べ、ともに船を降りようとした
――その瞬間。
風を裂く鋭い音。
帯姫の胸を射抜くように、一本の矢が飛来しました。
次の刹那、天皇は腰の剣を抜き放ち、閃光のような一太刀でそれを薙ぎ払っていました。
乾いた衝撃音とともに矢は弾かれ、海へと落ちていきます。
「下がれ」
低く言い、天皇は帯姫の前に立ちました。
しかし安堵する暇もなく、四方から無数の矢が放たれます。
空を黒く染めるほどの矢の雨。
天皇の背に、肩に、腕に、矢が突き立ちます。
それでも天皇は退きません。
盾となるように、帯姫を覆います。
矢羽が震えるたび、鮮やかな血がにじみます。
それでも帯姫には一本も届きません。
「……!」
声にならぬ叫びが喉を裂きます。
――違う。
これは、まだ起きていない。
帯姫は、船の前に立ったまま、現実の海を見ていました。
穏やかな波。晴れ渡る空。何事もない紀伊の浦。
けれど、今見た光景は、あまりに生々しいものでした。
天皇の温もり。
血の匂い。
すべてが、現のようでした。
足の力が抜け、帯姫はその場にうずくまります。
「どうした」
天皇が慌てて手を差し伸べます。
その手は、まだ傷ひとつ負っていない、綺麗な手です。
帯姫は荒い息を整え、震えを押し殺して言いました。
「このまま、大船で進めば……賊に襲われます」
静かに、しかしはっきりと告げます。
「吉備の浦にて、矢が放たれます。わたくし達を狙って」
言葉が詰まります。
天皇はしばし黙しました。
帯姫の瞳を、まっすぐに見つめます。
それが虚言でないことを、彼は知っていました。
「避ける術はあるか」
「ございます」
帯姫は息を吸いました。
「大船はそのまま進ませ、囮といたしましょう。わたくしたちは、小さき舟に分かれ、目立たぬように。進路も時も、ずらします」
天皇の表情に、わずかな寂しさがよぎります。
「……ともに行けぬのか」
その一言に、胸が痛みます。
けれど帯姫は首を縦に振りました。
「生きて、穴門でお会いするために」
静かな決意。
やがて天皇は、ゆっくりとうなずきます。
「よい。その言葉を信じる」
天皇は振り返り、家臣たちを見渡しました。
「どうやら、我らに仇なす賊が潜んでいるらしい」
ざわめきが広がります。
天皇は一歩前に出ました。
「大船は予定通り進め。賊どもは、これを本隊と思うであろう。われは別働し、奴らを討つ」
声は低く、しかし力強いものでした。
「我らの行く手を阻む者があるならば、海の底へ沈めよ。大和の威を、知らしめるのだ」
兵たちの目が変わります。
恐れではなく、昂り。
「おお!」
一斉に応じる声が、港に響きました。
天皇が信じるものを、臣下もまた信じます。
その背を守ることこそ、誇りでした。
出立の支度が、にわかに慌ただしく整えられていきます。
小さな舟が水面に下ろされました。
天皇は乗り込む前に皇后へと歩み寄り、言いました。
「穴門で会おう」
その声音は、穏やかで強い。
帯姫は深くうなずきます。
「はい、必ず」
舟が岸を離れます。
春の光の中、天皇の姿が次第に遠ざかっていきました。
胸の奥に、なお残るあの光景。
矢の雨。
血に染まる背。
帯姫は拳を握りしめました。
未来は、まだ定まっていません。
波は静かに揺れ、二つの舟を、それぞれの方角へと運んでいきました。
次回、第11話「葛城の春」では
不吉な未来を恐れた帯姫は葛城へ身を寄せ、妹の明るさに支えられながら心を整えていきます。




