第九部 第8章:黄金の落日――商人の矜持と「詰み」の宣告
平原を埋め尽くした一万の軍勢が、たった二千五百弱の「統一軍」によって文字通り粉砕される様を、ゲルニーハーヘンの強固な市壁の上から凝視する者たちがいた。ガウス自治領の実質的な支配者たち――ホーハーベン商会の会頭マンフレート・ホーハーベン、そしてその軍門に降ったロルフ・ハース、アントン・グラーフである。
マンフレートは、燃える平原と逃げ惑う傭兵たちの姿を、表情一つ変えずに黙して見つめていた。 「マンフレート殿! 負け、負けたではないか! あれほどの軍勢が、なぜ! これからどうすればよいのだ!」 ロルフ・ハースが、震える声でマンフレートに縋り付いた。 マンフレートがゆっくりと彼に目を向ける。その瞳は、深淵の底のように冷たかった。
「戻るぞ」 マンフレートは短くそれだけを言い捨てると、壁を降り始めた。ハースとグラーフは、救いを求めるように顔を見合わせた後、慌てて彼の後を追った。
「……傭兵とゲルマニアの野蛮人どもの戦いなど、所詮はこんなものだ。状況が読めん。いかに理詰めで盤を組んでも、暴力という理不尽が簡単にそれをひっくり返しおる」 マンフレートは歩きながら、吐き捨てるように続けた。 「だが、いい。私はまだ負けたわけではない。自治領の私兵どもに伝えろ。ミューラーの小僧たちを一歩も中に入れるなとな。儂は行くぞ」 「どこへ行かれるのですか!」 「儂と、鷲の紋章を冠するホーハーベン商会が健在であれば、負債などいくらでも取り返せる。海路でブリタニア、あるいは北方諸国連合へ向かい、そこで立て直しを図る。金さえあれば、ゲルマニアなどいつでも買い戻せるわ」
「準備は、今から間に合うのですか?」という問いに、マンフレートはジロリと二人を射抜いた。 「……貴様らは、何も準備をせずに今の戦を見物していたのか? 悠長なことだ」 マンフレートは冷笑を浮かべる。 「傭兵が勝った場合、負けた場合。商売人ならあらゆる状況に対応できる備えを済ませておくのが当然だろう。その程度の判断もできぬから、貴様らは儂の下風に立つことになったのだ。好きに動くがいい。これ以上、用はない」
市壁を出たマンフレートは、周囲を固める私兵を伴い、自身の商館へと向かった。 街中は、外で凄惨な虐殺が行われたとは思えないほど静まり返っていた。だが、マンフレートはその空気が普段と決定的に異なっていることを、肌で敏感に感じ取っていた。
道行く人々の「眼」だ。 かつて畏怖と羨望の対象であったマンフレートに向ける視線は、今や不安、心配、そして隠しきれない恨みと侮蔑に満ちていた。これはハンス率いる特務隊が、数ヶ月かけて街に潜り込み、大商家の悪行を噂として流布し続けた成果であった。
「お待ちください! 私たちは……私たちはどうすれば!」 縋り付こうとするハースとグラーフを、マンフレートの護衛が無慈悲に道端へ放り投げた。マンフレートは一度も振り返ることなく、自身の巨大な商館へと足を踏み入れた。
だが、商館に入った瞬間、彼は立ち止まった。 常に各国の商人と商談の声でごった返している一階のフロアに、人っ子一人いない。不気味なほどの静寂が建物全体を支配していた。
「……誰かおらんのか! 責任者はどうした!」 マンフレートの怒鳴り声に応じ、奥から怯えた様子の従業員が走り寄ってきた。 「商館長、よくお戻りに……!」 「無駄口を叩くな。出国の準備を。すぐに出るぞ」 マンフレートは奥の自室へ進もうとしたが、従業員がついてこないことに気づき、眉を顰めた。 「どうした。儂の声が聞こえんのか」 「いえ! ですが……あの、来客がございます。先ほどから、商館長のお帰りをお待ちの方が……」
「誰だ? 儂は忙しいと言え」 「そういうわけにはいかないのですよ、ホーハーベン商会長。貴方には、どうしてもお伝えせねばならない『大事な商談』がありましてね」
声のする方へ視線を向けると、二階の階段から一人の男がゆっくりと降りてきた。 こつ、こつ、こつ。 規則正しい足音を響かせ、マンフレートの記憶にない、だが極めて知的な空気を纏った中年男が姿を現した。
男は階段を降りきると、マンフレートの正面で丁寧に一礼し、口を開いた。 「初めまして。私はオットーと申します。ゲルマニア新商人ギルドの臨時ギルド長を務めております。ああ、ご心配なく。貴殿が作り上げた旧ギルドは、昨日の時点で解体・再編されました。私も微力ながら、創設者の一人として名を連ねておりますよ」
マンフレートは沈黙し、目の前の男を値踏みするように睨み据えた。 「……そして」オットーは言葉を継いだ。「『緋色の傭兵団』、対外交渉責任者でもあります」
「……何?」 「残念ながらホーハーベン殿、貴方がこのゲルニーハーヘンを離れることはできません。商会の全活動は停止され、個人のものを含むすべての資産は、既に凍結させていただきました。貴殿には、先の『宣戦布告』の規定に則り、一切の権利を剥奪させていただきます」
マンフレートは鼻で笑った。 「馬鹿げたことを。あれは傭兵同士の勝手な野良試合だ。そもそも『宣戦布告』などという野蛮な取り決めは、商人である儂には適用されん」 「そうおっしゃると思いましたよ。ですが、貴殿ら大商家がこれまで傭兵群団を私兵として使い、領主や領民に対して行ってきた数々の支配的行為……それらすべてを、白日の下に晒していただく義務があります」
「……儂の商会は無関係だ。証拠でもあるのか」 「証拠なら、いくらでもありますよ。この通り」 オットーの背後に控えていた特務隊の男が、分厚い紙の束を床に叩きつけた。 マンフレートはそれを一瞥し、不敵に反論した。「……捏造ではないのかね?」
「よくお分かりで。ええ、すべて我々が捏造したものです。 被害を受けた方々の『悲痛な証言』という名に基づいて、極めて説得力のある形で作らせていただきました」 オットーの言葉は、商人の交渉術としての「冷徹な合理」に満ちていた。
「話にならんな」 マンフレートは踵を返し、出口へ向かおうとした。だが、オットーの次の一声が、彼の足を釘付けにした。
「……貴方を乗せる船は、この港には一隻もありませんよ」 マンフレートがゆっくりと振り返る。「どういう意味だ?」
「『ゲルマニア海運商会』のパウル・アルトマン会長は、我々に非常に協力的でしてね。貴殿の乗船も、ホーハーベン商会の荷の運搬も、すべて拒否すると確約をいただいています」 「ゲルマニア海運商会だと……?」 マンフレートの顔から血の気が引いていく。 「はい。ガウス海運商会は、統一軍への恭順と引き換えに名称を変更し、公国公認の運搬業者となりました」
オットーは、たたみかけるようにアルトマンからの伝言を投げつけた。 「パウル氏からはこう言付かっております。『貴殿の商会の資産は、ありがたく頂戴しました。ご心配なく、私が有効に活用させていただきます』……だそうです」
「アルトマンが……裏切ったというのか」 マンフレートが膝をつきかけるのを、オットーに同行していた特務隊の団員が支え、椅子に座らせた。 「そろそろゲルニーハーヘンの正門は開け放たれている頃でしょう。新たな君主アレク大公が、もうすぐここに到着します。貴殿には、ここにある書類に基づき、新国家の法の下で『公平な裁判』を受けていただきます」
オットーは、算盤を弾く時のように、完璧に整えられた笑みを浮かべた。 「裁定が下るまでは、完全に拘束はしません。どうぞ、この商館で最期の時までくつろいでいてください。……よろしければ、最高級の茶でも用意させましょうか?」
かつてゲルマニアの経済を掌の上で転がした巨商、マンフレート・ホーハーベン。 その眼前で、黄金の時代が音を立てて崩れ去っていった。




