第九部 第5章:開戦の咆哮――鉄と炎の演算
早朝。東の山麓が薄っすらと白み始めた頃、俺たち緋色の傭兵団の陣営は、静かな、しかし確実な熱気を帯びて動き出していた。 同様に、ミューラー公国軍、黒狼騎士団、そしてヴィットマン子爵領の鉄鋼兵たちも、それぞれの流儀で最終的な点検を終えていた。俺は、自分たちの「内臓」であるエマさんの給食隊や、マルコ率いる教導隊と孤児たちを安全な後方へと下がらせる。 「……死んじゃためだよ、シン。豪華な晩飯用意しとくからさ!」 背後から聞こえたエマおばちゃんの太い声を背に受け、俺は深く息を吸い込み、戦場へと歩き出した。
戦場となるのは、ゲルニーハーヘン外郭に広がる広大な平原だ。 進軍の途中、俺たちの軍の最後尾にどっしりと陣を構えるアレク大公(公主)の本陣を通過した。彼はあくまで、この戦いを「正規軍による正当な勝利」というパフォーマンスとして完成させるべく、その冷徹な碧眼で盤面を俯瞰している。 さらに前進し、俺たちはヴィットマン子爵領の「鉄鋼兵」と合流した。鈍色の重装甲に身を包んだ彼らは、動かざる山のごとき威圧感を放っていた。
前方、約六百歩の距離に、ガウス自治領と四つの傭兵群団が三々五々集まり始めていた。 あちら側には軍形も陣形もない。ただ「茶・青・緑・黄」の色ごとに、烏合の衆が固まっているだけだ。 対する我が統一連合軍の布陣は、俺とツェンが練り上げた「生存の合理」に基づいている。
最前列中央: ヴィットマンの「鉄鋼兵」四百名。この軍の最強の盾だ。
鉄鋼兵直後: クリスの弓隊(六十名)と赤い鷹傭兵団(六百五十名)、そしてヤミルの歩兵隊(百名)。
本陣左右: ゲルドとノインが率いる工兵隊。覆いを取り払われたカタパルト十基とバリスタ二十基が、その巨大な牙を剥き出しにしている。
両翼外周: アドルフィーネ率いる黒狼騎士団各二百騎。彼らはまだ、牙を隠して静止している。
遊撃・特務: ガーブ率いる遊撃隊は俺の横に待機している、ハンスの特務隊は廃墟の瓦礫や地形に溶け込んでいる。
敵陣は、前列に青の傭兵群団三千、中央に主力の茶の剣傭兵群団四千、左右に緑と黄が各三千。計一万三千の「数の暴力」が、こちらの五倍以上の密度で蠢いていた。
「……さて、盤上の駒を動かすとするか」 俺は馬を駆り、鉄鋼兵の分厚い壁の前に一騎で進み出た。 一万対一。突き刺さるような憎悪と侮蔑の視線が肌を焼くが、心地よいほど冷めた自分がいた。 敵陣の中央が左右に割れ、一人の男が前に出てきた。筋骨隆々の巨躯に傷だらけの甲冑、茶の剣傭兵群団長、「茶色の羆」ヨハンだ。
互いの距離は二百歩。俺はあえて、平原中に響き渡るような声で口上――という名の毒を吐いた。
「そこにいるのは茶の剣のヨハンか? 散々俺たち『緋色』にちょっかいを出しながら、自分はゲルニーハーヘンの娼館で震えていた弱虫のヨハン。……これだけの烏合の衆を集めなければ戦場にも立てない臆病者。おい、脚は震えていないか? 少しばかり絞めてやるから、今度は逃げずにいてくれよ?」
一瞬の静寂。直後、ヨハンの顔が沸騰したかのように真っ赤に染まった。 「……てんめぇぇぇ! 作戦もクソもねぇ! 殺れ! あいつを、あの小僧を八つ裂きにしろおおおおお!」
ヨハンの咆哮に呼応し、一万の傭兵たちが地鳴りのような雄叫びを上げ、津波となって押し寄せてきた。 軍形も陣形も、統制された速度もない。ただ俺という一点を目掛け、獲物を狙う野獣の群れが殺到する。
俺は静かに左手を挙げ、そして一気に振り下ろした。 「――開戦だ」
鉄鋼兵の隙間から、クリスの弓隊が第一射を放った。六十本の矢が敵陣最前列に突き刺さる。 「射っ!」 クリスの鋭い号令と共に放たれる第二射、第三射。驚異的な速射により、先頭を走る傭兵たちが次々と地面に縫い付けられる。つんのめった死体が後続の足を払い、連鎖的な転倒を引き起こした。
俺は踵を返し、鉄鋼兵の壁の向こう側へと戻りながら叫ぶ。 「カタパルト、撃てぇぇぇ!」
ブォォォン! 空気を引き裂く重低音。人の頭の二倍はあろうかという巨石十二発が、前列の頭上を越えて敵軍の中央へと降り注いだ。 回避しようとした傭兵たちが左右に乱れ、さらに後続に突き飛ばされる中、巨石が着弾する。 グシャ! ドガン! 骨が砕ける音。鉄がひしゃげる音。一撃で数人を押し潰し、砕けた石の破片がさらに周囲の肉を削る。一万三千の「塊」に、明確な混乱の亀裂が走った。
「鉄鋼兵、五十歩前進! 盾を構えろ!」 俺の指示に従い、重装歩兵の壁が地響きを立てて動き出した。 彼らが立ち止まり、大盾を地面に突き立てた瞬間、そこへ勢いを失った傭兵たちがぶつかる。 だが、そこにはハンスが深夜に仕込んだ「罠」があった。地面に張り巡らされた綱や、あえて埋められた障害物に足を奪われ、敵は鉄鋼兵に触れる前に次々と転倒していく。
ガギィィィン! ようやく辿り着いた傭兵の剣も、全身を板金鎧で覆った鉄鋼兵には通用しない。彼らは冷徹に盾の隙間から槍を突き出し、殺到する敵を機械的に処理していく。
「バリスタ、前へ!」 次弾の用意を終えた工兵隊が、巨大な弩弓を鉄鋼兵のすぐ後ろに据えた。 ゴウン! 水平に放たれた巨大なボルトが、敵兵の身体を容易く貫通し、その後ろにいる数名をも串刺しにして突き進む。 経験したことのない「射程の暴力」に、敵中軍から後方は恐怖に支配され、立ち止まったまま遊兵と化していた。
「カタパルト、次弾――『焼夷弾』用意! 放てぇ!」
ぶん、ぶんと唸りを上げて飛翔したのは、石ではなく、可燃性の液体を満たした特製の陶器だ。 それが傭兵たちが最も密集する中軍辺りに降り注ぐ。 ガシャリ! パリン! 砕けた陶器から異臭を放つ液体が飛び散り、何百人もの傭兵がそれを浴びた。 「……なんだこれ? 油か?」 困惑する彼らの頭上に、クリスが放った火矢が、導火線のごとく弧を描いて落ちた。
ゴオォォォォッ!!!
一瞬にして平原の中央が火の海と化した。油を被った傭兵たちが火だるまとなり、絶叫しながら転げ回る。その狂乱が周囲の兵にも伝播し、一万の軍勢はもはや制御不能なパニックに陥った。
その凄惨な光景を冷徹に見つめながら、俺は低く呟いた。 「……第一段階終了。第二段階に移る」




