第九部 第2章:盤上の叛逆――「天秤」が描く生存の陣形
緋色の傭兵団幹部による深夜の密議から三日が経過した。 俺たちは、中央平原北端、ガウス自治領から七十キロほど離れた平原に巨大な陣を張る、ミューラー公国軍の本陣へと足を踏み入れた。東の空にはヴィットマン領の山々がそびえ、そこから冷徹な重装歩兵「鉄鋼兵」を率いてやってきたイワノフ・フォン・ヴィットマン子爵も、俺たちと合流していた。
公国軍の規律は凄まじい。行き交う兵士たちの足音さえ統制され、まるで一つの巨大な機械のようだ。一人の伝令兵の案内で、最高指揮官たるアレク大公(公主)が待つ巨大な天幕へと誘導される。
「失礼します! ヴィットマン子爵、並びに鉄鋼兵団ヴォーゲル団長! 緋色の傭兵団よりガーブ団長、シン副団長、オットー副団長、ノイン殿、ツェン殿! そして赤い鷹傭兵団シーゲル団長をお連れしました!」
「入れ」 天幕の奥から、低く、だが驚くほど透き通った声が響いた。アレク大公の側近、ブラウンシュタイン氏の声だ。
中に入ると、最奥の椅子に若干十六歳の天才児、アレク・フォン・ミューラーが深く腰掛けていた。その背後にはブラウンシュタイン、そして黒一色の皮鎧に身を包んだ「黒狼騎士団」の長、アドルフィーネ・ヴォルフハルトが不敵な笑みを浮かべて立っている。
「皆、よく集まった。……座れ。時間がない、すぐに会議を始めるぞ」 アレクの碧眼が俺たちを一瞥する。ブラウンシュタインが慣れた手つきで、テーブルの上に巨大な周辺地図を広げ、全員に湯気の立つ茶を用意した。
「現状を確認する。敵はガウス自治領と四つの傭兵群団、総数一万。対するこちらは俺の正規軍二百、黒狼騎士団四百、ヴィットマンの鉄鋼兵四百、緋色の傭兵団二百、赤い鷹六百五十。合計一千八百五十余りだ。……実に五倍以上の兵力差。生半可な覚悟では、勝利どころか生き残ることさえ不可能だ」
アレクは淡々と、まるで数字を読み上げるように続けた。 「だが、俺は勝つためにここにいる。そのための演算は既に終わっている。皆にも、その『計算』の一部になってもらう」
ブラウンシュタインが地図の上に駒を置いていく。公国軍と黒狼の配置、鉄鋼兵の配置、そして俺たち「緋色」と「赤」の配置……。 その配置図を見た瞬間、俺の隣でツェンが鼻で笑う気配がした。俺も内心でため息をつく。 (……全く、ツェンと想定した通りの『捨て石』配置だ。本当に、俺たち傭兵が嫌いなんだな、殿下)
アレクの案はこうだ。 中央前面に「緋色」と「赤い鷹」を据える。俺たちに私怨を持つ「茶の剣」を中央突破させ、わざと中央を下げさせたところを、左右の両翼から黒狼の騎馬と鉄鋼兵で挟み撃ちにする。 一見合理的だが、その実、中央で肉壁となる俺たちは、敵の初撃を全てその身で受け止めねばならない。
「アレク大公。……待っていただきたい」 俺の声が天幕に響いた。一同の視線が俺に刺さる。 「ここは作戦を検討し、各軍の代表が討議する場であったはずだ。一方的な指示を受ける前に、俺たちが練り上げた案を披露させてもらいたい」
アレクの顔が一瞬、不快そうに歪んだ。 「……どういう意味だ? 我が軍の勝利は、俺の演算によって保証されている」 「意味も何も、まだ軍議は始まったばかりでしょう? だから――」 「その必要はない。この戦場を支配するのは俺だ。俺が決めた通りに動けば良い」
アレクの言葉を、俺は鼻で笑って遮った。 「それが『静かなる盤上の支配者』の決定ですか? ならば、『戦場の天秤』が導き出した最適解も、聞いておいて損はないと思うが?」
「貴様……!」 公国軍の将校の一人が、剣の柄に手をかけて俺に詰め寄ろうとした。それをアドルフィーネが楽しそうに、ブラウンシュタインが冷ややかに制した。 「止めなさい。……アレク様。実行するかは別として、シン殿の案を聞く程度の時間はあります。決定権は、あくまで貴方にありますので」
アレクは舌打ちせんばかりの表情で、椅子の背にもたれかかった。 「……フン。言ってみろ。その傭兵流の『生存工作』とやらを」
俺はガーブ、オットーさんと視線を交わした。ガーブは「やってやれ、シン」と言わんばかりに親指を立てる。俺は用意していた書類の束をテーブルに叩きつけた。
「そもそも、五倍の敵と正面からぶつかるこの作戦は、あまりに犠牲を前提としすぎている。ガウスの傭兵一万に対し、こちらは千八百五十。奴らは個人の武勇に頼る猪突猛進の烏合の衆だが、数そのものが持つ圧力は無視できない」
俺は地図に置かれたアレクの駒を指さす。 「殿下の案通りなら、損害率は全体で六割。そして中央の俺たち『緋色』と『赤い鷹』は、八割から九割が死に絶える計算になる。これは勝利ではない。ただの使い潰しだ」
アレクは目を閉じ、無表情のまま沈黙を守る。アドルフィーネだけが、面白そうに目を輝かせていた。 「損害六割か。……傭兵群団を壊滅させても、その後の国家建設に必要な兵が消えては意味がありませんな。ヴィットマン子爵、貴殿はどう思う?」
ヴィットマン子爵が重々しく問いかけるが、アレクは答えない。 「続けても?」 俺はアレクの駒を一度全て盤上から外し、自分の手で再配置を始めた。
「申し訳ないが、俺たちは傭兵だ。傭兵は『生き残ってなんぼ』を唯一の信条としている。捨て石になるために剣を握っているわけではない。だから、俺は『一人も殺さないための勝利』を提案する」
アドルフィーネが「ほう」と声を上げる。俺が再配置した軍容は、アレクの案とは真逆だった。 「鉄鋼兵を中央正面に配置するだと……?」 ヴィットマン子爵が驚愕の声を上げる。アレクもまた、苦り切った顔で盤面を見つめた。
そして俺は、新たな駒の代わりに、十数個の金貨を地図の上に並べた。
「ヴィットマン子爵は既にご存知のはずだ。俺たちがこの数ヶ月、旧帝都で何を造っていたか。……これは俺たちが用意した決戦兵器。カタパルト十二基、バリスタ二十基だ」
俺の言葉に、天幕内の空気が一変した。 「野戦で攻城兵器だと? 正気か?」 ヴィットマン子爵が目を見開く中、俺は不敵に笑い、次の手を盤上に叩きつけた。




