第六部 第7章:天秤の静寂と「盤上の支配者」の試練
激闘から数刻後。ケッセルブルグ城の一室は、濃密な血の匂いと消毒薬の鼻を突く香りが混ざり合い、異様な静寂に包まれていた。
円卓を囲むのは、ミューラー公国公主代行アレク殿下、そして満身創痍の二人の女傑。黒狼傭兵団の団長アドルフィーネ・ヴォルフハルトと、我が団長ガーブである。その周囲を黒狼の幹部たち、ハンス、イエーガーさん、そして抜剣こそしないものの隙なく控える公国正規兵が取り囲んでいた。
「……結局、どう片を付ける気だ。アレク殿下」 アドルの声は、喉を痛めたのか低く唸るようだった。その姿は凄惨という他ない。頭部には分厚い包帯が巻かれ、頬にはいくつもの絆創膏。青あざで塞がった目は痛々しく、片腕を三角巾で吊り、片足を投げ出している。骨折こそ免れたようだが、茶を飲もうとして傷口に染みたのか、顔を顰めて一口で諦めていた。
対するガーブも同等か、それ以上にひどい有様だった。片目を包帯で完全に覆い、もう片方の目も腫れ上がって細い隙間しかない。両頬は膨れ上がり、呼吸のたびに軋むのか、しきりに横腹をさすっている。
(……漢だね、二人とも。悪いことは言わねえ、絶対に嫁にだけはしたくねえな)
背後でハンスが小声で漏らした感想は、俺も全面的に同意するものだった。だが運悪くそれがガーブの耳に届いたらしい。彼女の手元にあった消毒用の酒瓶が正確な軌道でハンスの顔面に直撃した。鼻を押さえて逃げ出したハンスに続き、イエーガーさんも無言のまま脱兎のごとく部屋を去った。
アレク殿下は、手元の茶をゆっくりと啜り、場を鎮めるように口を開いた。
「……今回の宣戦布告、無効にする……というわけにはいかなそうだな」 その言葉が終わる前に、アドルとガーブの「生き残った目」が同時にアレクを射抜いた。
「冗談。無手で決着がつかなかっただけだ。次は剣で殺る」 「ほう、言うじゃないか小娘。いいぞ、引導を渡してやる! なんなら今ここで全軍ぶつけるか?」 立ち上がろうとする二人を、周囲の幹部たちが必死で押さえつける。 「まるで子供の喧嘩ですな」 後ろで控えていたブランシュタインさんの呆れた一言で、ようやく場は収まった。
「では、こうしよう」 アレク殿下が提示した条件は、極めて政治的かつ合理的なものだった。
一、緋色の傭兵団はミューラー公国ではなく、アレク殿下「個人」に雇われること。軍命ではなく、あくまで殿下個人の「要請」に応じる立場とし、代わりに殿下は緋色の傭兵団を全面的に支援する。
一、両傭兵団は、黒狼傭兵団が「兄」格、緋色の傭兵団が「弟」格として「絆(兄弟の契り)」を結ぶ。緋色の傭兵団は黒の槍傭兵群団には所属しないが、ヴォルフハルト団長の要請には最大限協力すること。
俺は即座に「承知しました。俺たちはそれでいい。な、ガーブ?」と念を押し、しぶしぶながらガーブも了承した。黒狼側も、これ以上の泥沼を避けるべく幹部たちがアドルを説得し、合意に至った。
「では、合意の握手を」 殿下の促しで二人が手を差し出す。だが、握り合った瞬間に双方の手に青筋が立ち、相手の手を握りつぶさんとする激痛の我慢比べが始まったため、再び周囲が慌てて引き離す羽目になった。
実のところ、二人が手当を受けている間に、俺とアレク殿下でこの条件を詰めていたのだ。
「宣戦布告」の決着としては異例だが、組織としての主従ではなく、個人としての信頼と「要請」という形に落ち着かせることで、俺たちの独立性を守りつつ、ゲルマニア最強の黒狼傭兵団という後ろ盾を得ることができた。これで、旧帝都を囲む茶の剣傭兵群団とも、正面から渡り合えるだけの盤面が整ったわけだ。俺たちにとっては、これ以上ない「勝利」と言える決着だった。
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その夜、城の食堂では、戦いの遺恨を酒で流すための宴が開かれた。
緋色の面々と黒狼の猛者たち、そして公国正規軍の幹部たちが入り混じり、ワインとエールが惜しみなく振舞われる。そこでは、ボロボロの体のアドルとガーブが「どちらが多く食えるか」という、これまた不毛な意地の張り合いを続けていたが、平和なものだと放っておくことにした。
俺は今、別室でアレク殿下と膝を突き合わせていた。 殿下の指示で、ブランシュタインさんがテーブルに一枚の巨大な地図を広げる。 「現在のゲルマニアの地図に、俺が独自に調べさせた二十八領の勢力図を記したものだ」
地図には、西にフランク王国、北に北外海、北東に神聖十字教の宗主国たる神聖ロマヌス国。そして東にデロス藩王国、南にノーデンス領やゴート国といった周辺諸国との位置関係が克明に描かれていた。 二十八の領主が支配する中央平原。それらを繋ぐ青の新街道と、かつて帝国が築いた赤の旧街道。殿下はさらに、ばさりと分厚い羊皮紙の束を置いた。
「各領地の人口、主産業、一族の構成、資産状況、そして実戦可能な正規兵数と雇い入れている傭兵団の数……そのすべてをまとめた資料だ」
俺は絶句した。俺が商人ギルドや噂話から必死に集めていた情報の、何十倍もの密度と正確さがそこにはあった。これこそが「静かなる盤上の支配者」と呼ばれる所以か。俺は、飢えた獣のようにその資料に食らいついた。
ろうそくの灯がゆらゆらと揺れ、暖炉の薪がパチパチと爆ぜる音だけが室内に響く。俺は殿下がそこにいることさえ忘れ、地図と数値を頭の中で立体的に組み立て、ゲルマニアという巨大なパズルを解くことに没頭した。 どれほどの時間が過ぎたのだろうか。
「おい」 「……」 「おい、シンと言っている」
肩を強く叩かれ、俺はようやく現実に戻った。見ればブランシュタインさんが困った顔で立ち、アレク殿下はあからさまに不機嫌な表情で俺を睨んでいた。俺を試そうと資料を差し出したのに、当の相手に存在を無視されたのだから、無理もない。
「……申し訳ありません、アレク殿下。没頭しすぎてしまいました。ですが、これほどの情報は……俺のような一傭兵では逆立ちしても集められない。さすがは殿下です」 俺が本心から称賛を口にすると、殿下は茶を一口啜り、わずかにその表情を和らげた。だが、その直後、碧眼に冷徹な光が宿る。
「さて、シン。お前も道すがら諸々調べてきたのだろう? ならば聞かせてもらおうか」
殿下は身を乗り出し、俺の目を真っ直ぐに射抜いた。 「この情報を読み解き、お前は何に気づいた? このゲルマニアという盤面、お前の目にはどう映っている」
その眼は、俺を単なる「使い捨ての駒」か、あるいは自身と共に戦後を語るに相応しい「同盟者」かを見極めようとする、王者の眼だった。
背筋に寒いものが走る。そう言いつつ、俺は笑っていた。 この怪物との言語戦。これに勝たなければ、俺たちの復讐も、未来も、この廃都の瓦礫の中に埋もれるだけだ。




