第五十四章 仇
重い扉が開かれた。
夜風が最上階へ吹き込む。
銀色の長い髪が静かに揺れた。
部屋の中央では、黒き剣が男へ振り下ろされようとしている。
その光景を見た女王は、一瞬たりとも迷わなかった。
「やめて!」
澄んだ声が響く。
次の瞬間。
女王は男と魔王の間へ飛び込んだ。
黒き剣が空中で止まる。
あと数寸。
その刃は女王の肩へ届く距離だった。
魔王の腕が震える。
「……なぜだ。」
初めてだった。
魔王の声に、動揺が混じる。
「危ないぞ、退きなさい。」
静かな命令。
女王は首を横へ振る。
「退きません。」
「この者は、お前を騙している。」
「違います。」
その返事はあまりにも早かった。
迷いがない。
「あなたが騙していたのです。」
その一言に、部屋の空気が凍りつく。
男は床へ膝をついたまま、二人を見上げていた。
何が起きているのか分からない。
魔王だけが女王を見つめ続ける。
「……何を言っている。」
「私は全部知っています。」
静かな声だった。
怒鳴りもしない。
泣きもしない。
ただ、事実だけを告げる。
「お母様の日記を、最後まで読みました。」
魔王の瞳がわずかに揺れた。
「お父様の日記も。」
男は息を呑む。
日記。
それが何を意味するのか。
普通なら分からない。
だが魔王は違った。
その一言だけで理解した。
王妃が娘へ想いを書き残していたことを。
国王が最後まで抗っていたことを。
そして。
女王が、すべてを知った上で今日まで生きてきたことを。
「……いつからだ。」
魔王が静かに問う。
「あなたが西へ渡った頃です。」
女王は答えた。
「あの日から、私はあなたを疑っていました。」
男は目を見開く。
西への遠征。
それは、すべてが始まった日だった。
「でも。」
「証拠がありませんでした。」
「誰も信じてはくれません。」
「だから私は待ちました。」
「国を守るために。」
その言葉を聞き、男の胸が締めつけられる。
王女は何も知らず、王配に従っていると思っていた。
違った。
ずっと、一人で戦っていた。
誰にも言えず。
誰にも頼れず。
笑顔を作り続けながら。
魔王は静かに息を吐く。
「なるほど。」
「演技では、私が敗れたか。」
その笑みは、どこか寂しげだった。
だが次の瞬間。
黄金の瞳が鋭く光る。
「ならば。」
「ここで終わらせる。」
女王へ向けて視線を合わせる。
「眠れ。」
その一言だけだった。
王城を支配してきた絶対の力。
黄金のチャームが放たれる。
男は叫ぼうとした。
「逃げろ!」
しかし声にならない。
女王は動かなかった。
静かに右手を開く。
掌の上には、小さな水色の護符があった。
真名石。
淡い光が静かに揺れる。
黄金の光が、その手前で霧のように消えていった。
魔王の瞳が、大きく見開かれる。
「……馬鹿な。」
初めてだった。
自らのチャームが、目の前で完全に拒まれた。
女王は護符を胸の前で強く握り締める。
「この方が命懸けで届けてくれた希望です。」
その言葉に、男は驚いて顔を上げる。
賢者。
頭領。
仲間たち。
自分一人ではなかった。
すべてが、この瞬間へ繋がっていた。
女王はゆっくりと魔王を見つめる。
もう涙はない。
恐れもない。
ただ、王として立っていた。
そして静かに告げる。
「あなたは父の仇です。」
その一言は、剣よりも深く魔王の胸へ突き刺さった。
部屋は静まり返る。
男も。
魔王も。
誰一人として言葉を発せない。
長い沈黙の末、魔王は小さく笑った。
「……なるほど。」
「これが人間か。」
その笑みには、初めて余裕がなかった。
その隙を。
男は見逃さなかった。
折れた剣の柄を静かに握り直す。
まだ終わっていない。
約束も。
戦いも。




