第十七章 王女の剣
「妖精の国へ連れて行けるのか?」
男は賢者へ言った。
賢者は即答した。
「ダメじゃ」
男は眉をひそめる。
「早いな」
「当たり前じゃ」
賢者は肩をすくめた。
「お主の中には魔王の魂がおる」
「フェアリーヒルの結界は通れん」
「無理やり入れば妖精達が大騒ぎじゃ」
男は黙る。
賢者はさらに続けた。
「それにわしも忙しい」
「世界の観察があるからの」
「今日は東大陸で王様が暗殺されるし」
「西の海では巨大海蛇が暴れておる」
「南の街では夫婦喧嘩じゃ」
男は呆れた。
「最後は見なくていいだろう」
「いや面白いぞ?」
賢者は真顔だった。
その時。
賢者が鼻をひくつかせる。
沈黙。
再び鼻をひくつかせる。
そして。
「お前」
男は首を傾げる。
「臭いな」
男が固まった。
賢者は遠慮なく続ける。
「かなり臭い」
男は息を呑む。
うっすら気付いていた。
王都にいた頃は毎日水浴びをしていた。
だが、逃亡してから数年。
川へ落ちた時くらいしか身体を洗っていない。
監獄生活が長過ぎた。
悪臭に慣れ過ぎていた。
臭いという苦痛そのものを忘れていた。
男の脳裏に仮面の部族が浮かぶ。
供物を置いていた村人達。
花をくれた少女。
男は仮面の中で唇を噛んだ。
(あいつら……臭いと思っていたかも……)
地味に傷ついた。
賢者は立ち上がる。
「まず洗う」
「話はそれからじゃ」
泉の水面が揺れた。
男は嫌な予感がした。
次の瞬間。
大量の水が空中へ浮き上がる。
「待――」
遅かった。
巨大な水球が男を包み込む。
息ができない。
男の身体が水の中で回転する。
上下左右に振り回される。
服も身体も容赦なく洗われる。
「ごぼっ!?」
息ができない。
水球が弾けた。
男は地面へ落ちる。
咳き込む。
だが終わらない。
今度は風が巻き起こる。
男の身体が浮いた。
「まっ――」
暴風。
洗濯物のように回転する。
世界が回る。
木が回る。
空も回る。
男は本気で気絶した。
数秒後。
地面へ降ろされる。
服は乾いていた。
髪も乾いていた。
泥ひとつ無い。
「ゼー……ゼー……」
男は膝をつく。
「殺す気か……」
賢者は大笑いした。
「はっはっは!」
「不死身も大したことないのう!」
男は本気で殴ろうかと思った。
「よし」
賢者は満足そうに頷く。
「我が家へ案内してやろう」
・・・
泉の奥。
巨大な大樹の根元。
その内部は驚くほど広かった。
壁一面の本棚。
積み上げられた研究資料。
無数のメモ。
木製の机。
寝室。
台所。
そして大量の紙束。
男は思った。
(片付いていない)
賢者は机へ腰掛ける。
パイプに火をつける。
男も向かいへ座った。
鉄仮面を外す。
賢者は男の顔を見る。
裂けた口。
赤い目。
尖った耳。
だが何も言わなかった。
当たり前のようにハーブティーを差し出す。
しばらく沈黙が流れる。
やがて男が聞いた。
「なぜ私を知っている」
賢者は煙を吐く。
「昔見たからじゃ」
「十二年前」
「海岸でな」
男の目が開かれる。
賢者は笑った。
「正確には」
「お主ではなく王女じゃ」
そして静かに続ける。
「必死に水を飲ませておった」
「見捨てても不思議ではない相手をな」
「変わった娘じゃと思った」
賢者は煙を見つめる。
「それから時々見ておった」
「庭を歩く姿も」
「馬小屋も」
「国王との約束も」
男は何も言えなかった。
賢者は男を見つめる。
「だからお主を知っておる」
「国王の剣ではない」
「騎士団の剣でもない」
「お主は最初から」
そこで賢者は少し笑う。
「王女の剣じゃ」
男は俯いた。
その言葉だけで十分だった。
「さて」
賢者が身を乗り出す。
「チャーム対策じゃ」
その一言で空気が変わった。
「魔王のチャームは魂へ触れる魔法じゃ」
「精神ではない」
「だから普通の精神だけでは防ぎきれん」
男は顔を上げる。
賢者は引き出しから古い石板を取り出した。
そこには奇妙な鉱石の絵が描かれていた。
「真名石」(しんめいせき)
「魂を固定する石じゃ」
「これを護符に加工すれば魅了を大きく弱められる」
男は絵を見る。
賢者は続けた。
「だが問題がある」
「今はほとんど採れん」
「最後の産地は二つ」
賢者の指が石板を叩く。
「北方の竜骨山脈・・・
しかし、こちらはドワーフによって取り尽くされているやもしれん」
「そして――」
男の表情が固まる。
「西の滅びた国、現在の幻魔王国じゃ」
パチリ、と暖炉の薪が爆ぜた。
男の旅は。
再び屈辱の地へ向かおうとしていた。




