第十三章 悪魔の伝承
王都より遥か北。
人の手の届かぬ場所。
永遠の森と呼ばれる深き森があった。
昼なお暗い大樹の海。
数百年の時を生きる巨木。
霧に覆われた谷。
人知れず流れる清流。
そして森の奥には、人が決して近づこうとしない場所が存在していた。
その森の一角に、小さな集落がある。
人々は皆、仮面を被って暮らしていた。
外の世界では彼らをこう呼ぶ。
――仮面の部族。
永遠の森で道に迷った旅人。
希少な鉱石を求めて訪れた冒険者。
森へ薬草を採りに来た者。
彼らは時折、仮面の部族に助けられ森を脱出することがあった。
そのため存在自体は知られていた。
決して交流が盛んな訳ではない。
しかし完全な孤立でもなかった。
細々とした交易。
時折訪れる旅人。
そうした関わりの中で、部族は独自の文化を築いていた。
中でも特徴的なのが仮面である。
部族の子供は顔を晒して生活する。
だが成人の儀を迎えると仮面を授かる。
そして初めて一人前として認められる。
名前よりも仮面。
顔よりも仮面。
それが部族の掟だった。
なぜそのような風習が生まれたのか。
理由は遥か昔の伝承にある。
――森の悪魔。
部族の者なら誰もが知る古い昔話だった。
遥か昔。
部族の祖先たちがこの森に集落を築いた頃。
狩りの腕を競う血気盛んな若者たちがいた。
彼らは禁じられた森の深層へ足を踏み入れる。
そして見てしまった。
得体の知れない存在を。
それは人にも見えた。
怪物にも見えた。
金色の瞳。
尖った耳。
不思議な力を操る異形。
若者は勇敢にも立ち向かった。
だが勝負にもならなかった。
気付けば身体は吹き飛ばされ。
地面へ転がっていた。
意識を失った若者が目を覚ます。
すると。
怪物はすぐ目の前に立っていた。
若者を見下ろしながら。
静かに言ったという。
「ここで見たことを誰にも話すな」
「貴様の顔は覚えた」
「居場所も知っている」
「部族の者にも伝えろ」
「もし我らのことを外へ漏らしたなら」
「末代まで呪いをかけよう」
次の瞬間。
煙が立ち込めた。
気付けば怪物の姿は消えていた。
それ以来。
その存在は森の悪魔と呼ばれるようになり。
部族は仮面を被るようになった。
顔を覚えられないために。
呪われないために。
少なくとも伝承ではそう語られていた。
もっとも。
何世代も経った今となっては昔話に近い。
子供を脅すためのおとぎ話。
その程度に考える者も少なくなかった。
だが。
ある日。
その伝承が再び動き出す。
狩りから戻った若者が族長の家へ飛び込んだのだ。
息を切らしながら。
青ざめた顔で。
「見たんだ……!」
若者は震えていた。
「大岩にいた……!」
族長は眉をひそめる。
「何を見た」
若者は唾を飲み込む。
そして絞り出すように言った。
「森の悪魔を」
その場が静まり返る。
若者の話によれば。
森の北側にある大岩の近くで何者かを見たという。
顔はよく見えなかった。
だが異様だった。
伝承と同じような姿だった。
族長は腕を組む。
長く生きてきた経験から即座に結論を出した。
迷い人か。
冒険者だろう。
だが万が一もある。
そこで族長は提案した。
供物を置こう。
礼を尽くし。
立ち去ってもらおう。
数名の男たちが大岩へ向かった。
しかし誰もいなかった。
残されていたのは寝床の痕跡だけ。
結局、その日は何も起きなかった。
だが念のため。
若者を見張り役として通わせることにした。
それから数週間後。
新たな報告が入る。
大岩よりさらに北。
森の奥地で巨大な熊が目撃されたというのだ。
仮面の部族にとって狩りは生活そのものだった。
獣は食料であり。
毛皮であり。
宝である。
大熊など滅多に現れない。
若者たちは歓喜した。
久しぶりの大物だった。
数名が狩りへ向かう。
だが。
帰ってこなかった。
一日。
二日。
誰も。
戻らない。
不安になった族長は最も足の速い狩人を迎えに向かわせた。
翌日。
その狩人が帰ってきた。
全身傷だらけだった。
枝に裂かれ。
棘に刺され。
血だらけだった。
だが本人は気にしていない。
族長の前へ転がるように跪く。
そして叫んだ。
「全滅した!」
周囲が凍り付く。
狩人は息を荒げながら続ける。
「先に行った者たちは食われていた」
「巨大な怪物だ」
「三頭いる!」
「こっちへ向かっている!」
族長の顔色が変わった。
永遠の森は広大である。
怪物と遭遇する確率は極めて低い。
だが。
ひとつだけ。
その確率が跳ね上がる状況がある。
人の味を覚えた怪物。
飢えた怪物。
人を餌として認識した怪物。
それらは匂いを辿る。
どこまでも。
人のいる場所へ。
今。
その最悪が起きていた。
族長は立ち上がる。
男たちを集めた。
弓を持て。
矢を用意しろ。
森へ出ろ。
女と子供は家へ隠れろ。
全ての扉を閉めろ。
村全体が慌ただしく動き出した。
そして数時間後。
森の奥から轟音が響く。
戦いが始まったのだ。
木々が倒れる音。
怪物の咆哮。
男たちの怒号。
悲鳴。
村中に緊張が走る。
やがて。
誰かが家々の扉を叩き始めた。
激しく。
必死に。
「逃げろ!」
「化物だ!」
「壁ではもたない!」
「今すぐ森へ逃げるんだ!」
その声を聞いた瞬間。
仮面の部族の運命は大きく動き始めていた。




