第十二章 鉄仮面
圧倒的だった。
熊型怪物が咆哮を上げる。
その巨体が大地を揺らしながら突進する。
だが男は動かない。
いや。
動いたようには見えなかった。
次の瞬間。
怪物の前脚が宙を舞う。
鮮血が噴き上がった。
遅れて絶叫が響く。
男は既に別の場所にいた。
赤い瞳だけが静かに怪物を見据えている。
力だけなら怪物の方が上だったかもしれない。
筋力。
体格。
生命力。
どれを取っても人間を遥かに凌駕している。
しかし。
それだけだった。
男には長年積み上げてきた戦闘技術があった。
西の大国最強と呼ばれた頃から磨き続けた剣技。
幾多の戦場を生き抜いてきた経験。
そして。
地獄の監獄を耐え抜いた執念。
怪物が爪を振るう。
男は半歩だけ身体をずらす。
紙一重。
次の瞬間。
剣閃。
膝裏が断ち切られる。
巨体が崩れる。
そこへさらに一撃。
首筋の急所。
血飛沫。
一頭目が沈んだ。
二頭目が背後から襲う。
だが男は振り返らない。
気配で察知していた。
身体を沈める。
怪物の腕が頭上を通過する。
そのまま踏み込み。
脇腹。
肩。
喉元。
正確に急所だけを斬り裂く。
怪物は数歩よろめき。
崩れ落ちた。
三頭目だけが残る。
最後の怪物は本能で理解した。
目の前にいるのは獲物ではない。
捕食者だ。
怪物が唸る。
後退ろうとする。
だが遅い。
男は地面を蹴った。
風のように。
いや。
光のように。
一閃。
怪物の首が飛ぶ。
巨大な身体が地響きを立てて倒れた。
静寂が訪れる。
先ほどまで響いていた悲鳴も。
咆哮も。
全て消えていた。
男はゆっくりと剣を下ろした。
戦いは終わった。
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その時だった。
視線を感じた。
男は振り返る。
集落の者たちだった。
遠巻きにこちらを見ている。
皆、仮面を被っている。
大人も。
老人も。
子供も。
誰も近付こうとはしない。
男はそこで我に返った。
そして足元を見る。
助けた少女がいた。
先ほどの子供だった。
母親に抱き寄せられている。
少女は男を見ていた。
大きな瞳を見開いて。
恐怖を隠しきれない表情で。
男は理解する。
当然だ。
自分は怪物なのだから。
裂けた口。
赤い瞳。
尖った耳。
しかも目の前で巨大な怪物を斬り殺した。
子供には違いなど分からない。
怪物が怪物を殺したようにしか見えないだろう。
男は目を伏せた。
感謝されたかった訳ではない。
称賛されたかった訳でもない。
ただ守りたかっただけだ。
それだけで十分だった。
奥の方で仮面の者たちが何か叫んでいる。
言葉は分からない。
男は聞かなかった。
聞く資格もないと思った。
剣を納める。
そして静かに森へ向かった。
誰にも見つからぬよう。
誰にも怯えられぬよう。
再び森の奥へと姿を消した。
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その夜。
男は大岩へ戻った。
傷はない。
怪物程度では今の男を傷付けられなかった。
しかし予定は狂った。
小川の探索に向かうはずだった。
余計な時間を使ってしまった。
男は岩にもたれ掛かる。
明日行こう。
そう決めて目を閉じた。
---!
翌朝。
妙な気配で目を覚ました。
騒がしい。
男は身を起こす。
大岩の外から大勢の気配がする。
反射的に剣へ手が伸びた。
襲撃か。
だが様子がおかしい。
怒号ではない。
戦意も感じない。
男は慎重に外を覗く。
そして固まった。
仮面の部族だった。
大勢いる。
昨日の何倍も。
老若男女。
皆が大岩の前に集まっていた。
男の姿が見えた瞬間。
歓声のような声が上がる。
男はさらに困惑した。
何が起きているのか分からない。
すると。
人垣が割れた。
一人の老人が歩み出る。
他の者より装飾の多い仮面。
おそらく長老なのだろう。
老人は何かを両手で抱えていた。
ゆっくりと近付いてくる。
敵意はない。
男は警戒を解かなかったが剣は抜かなかった。
老人は男の前まで来る。
そして持っていた物を差し出した。
鉄仮面だった。
他の者たちが付けている物とは違う。
精巧な作り。
額や頬には古い紋様が刻まれている。
騎士が付ける兜に近い形状。
男はしばらく眺めた。
意味は分からない。
だが。
拒絶する理由もない。
男は仮面を受け取った。
その瞬間。
周囲から大きな歓声が上がる。
まるで祭りのようだった。
さらに人垣の中から二人が現れる。
昨日助けた親子だった。
今日は二人とも仮面を被っている。
男は首を傾げる。
やはり何かの儀式なのだろうか。
少女は母親の後ろへ隠れている。
昨日と同じだった。
男を見る目にはまだ恐怖が残っている。
すると母親が仮面を指差した。
そして自分の顔を指差す。
何度も。
何度も。
男はようやく理解する。
被れということか。
男は言われるまま鉄仮面を被った。
また歓声があがる。
男はさらに困惑する。
何がそんなに嬉しいのか分からない。
すると母親が少女の背中を押した。
少女が前へ出る。
恐る恐る。
一歩ずつ。
小さな手が握られていた。
その中には花があった。
どこにでも咲く小さな花。
森で見かける何の変哲もない花だった。
少女は男の前まで来る。
震えている。
怖いのだろう。
それでも逃げない。
男はゆっくり膝をついた。
少女と目線を合わせる。
少女は花を差し出した。
男は両手で受け取る。
少女は恥ずかしそうに顔を伏せると。
慌てて母親の後ろへ隠れた。
その姿を見て。
男は少しだけ笑った。
本当に久しぶりだった。
誰かに感謝されるのは。
胸の奥が温かかった。
忘れていた感覚だった。
男は花を見つめる。
そしてふと思い出す。
幼い王女。
小さな手。
無邪気な笑顔。
「こっちよ!」
そう言って自分の手を引いてくれた日々。
城の庭園。
暖かな陽射し。
何気ない時間。
もう二度と戻れない思い出。
男は静かに花を握りしめた。
鉄仮面の奥で。
誰にも見えないように。
ほんの少しだけ微笑んでいた。




