第十一章 森の悪魔
悲鳴が聞こえた。
男は走る。
草木をかき分け。
根を飛び越え。
枝を払いながら。
道なき森を一直線に駆け抜けた。
耳に届くのは人の叫び声。
そして何か巨大なものが暴れ回る破壊音。
木が折れる音。
家屋が砕ける音。
獣の咆哮。
男は自然と剣の柄を握り締めていた。
やがて森が開ける。
そこには小さな集落があった。
大樹の間に作られた村。
住居は木材で組まれ。
地面より高い位置に設置されている。
小型の獣や魔物から身を守るための工夫なのだろう。
だが今、その平穏は破壊されていた。
男は身を低くする。
気配を殺しながら村へ近づいた。
そして状況を確認する。
最初に目に入ったのは一頭。
巨大な熊型の怪物。
黒ずんだ毛並み。
異様に膨れ上がった筋肉。
全身から瘴気を漂わせている。
その怪物は倒れた村人の亡骸を貪っていた。
骨が砕ける音が聞こえる。
次に視線を移す。
二頭目。
同じ種の怪物。
こちらは住居を破壊していた。
太い腕を振るう度に木造の建物が吹き飛ぶ。
中に隠れている獲物を探しているのだ。
さらに奥。
三頭目。
数人の村人が必死に抵抗している。
鉄製の斧。
農具を削って作ったような槍。
鎌。
どれも戦うための武器ではない。
怪物の身体には無数の矢が刺さっていた。
だが厚い毛皮と皮膚に阻まれ、ほとんど効いていない。
村人たちはただ時間を稼いでいた。
逃げる者たちのために。
命を捨てて。
男の赤い瞳が細くなる。
三頭。
やはりそうか。
見覚えがあった。
遥か昔。
西の大国で何度も見た。
魔王軍の怪物だ。
三頭一組。
一頭が攻撃。
一頭が援護。
一頭が仕留める。
単純だが合理的。
長年魔王軍が用いた狩りの陣形だった。
男は考える。
魔王の追手か。
いや。
違う。
ここは遠すぎる。
魔王の支配領域から離れすぎている。
おそらく王都へ連れて来られた怪物の生き残り。
逃げ出した後、彷徨い歩き。
長い年月を経てチャームが解けた。
そしてただの獣に戻ったのだろう。
本能的に魔王を恐れ。
北へ。
北へと。
逃げ続けた。
その果てがこの森だった。
男がそう考えた時だった。
住居を壊していた怪物が動きを止めた。
何かを見つけたのだ。
男も視線を向ける。
壊れた家屋の隙間。
そこに獲物がいた。
小さな子供だった。
まだ幼い少女。
膝を抱え。
震えている。
恐怖で動けないのだ。
その瞬間。
近くの物陰から女性が飛び出した。
母親だった。
「逃げて!」
叫んでしまった。
本能だった。
我が子を守りたい一心だった。
少女は顔を上げる。
母親を見つける。
涙で濡れた顔が少しだけ明るくなった。
そして立ち上がる。
母の元へ駆け出した。
怪物が腕を振り上げる。
巨大な腕。
丸太のような前脚。
振り下ろされる。
轟音。
少女のいた場所が吹き飛んだ。
土が舞う。
木片が飛ぶ。
衝撃で少女は転がった。
母親が膝から崩れ落ちる。
顔を覆う。
見られなかった。
我が子が死ぬ瞬間を。
怪物が向きを変える。
まだ生きている。
だから殺す。
獣として当然の判断だった。
再び腕が上がる。
少女は立ち上がれない。
涙を流しながら後退るだけ。
逃げられない。
間に合わない。
誰もがそう思った。
その時だった。
少女の口から恐怖に満ちた声が漏れる。
悲鳴ではない。
驚きだった。
怪物も止まる。
いや。
止まらざるを得なかった。
腕が無かった。
肩から先が消えている。
鮮血が噴き上がる。
数秒遅れて激痛を理解した怪物が絶叫した。
その前に。
一つの影が立っていた。
剣を握る。
異形の怪物。
裂けた口。
赤い瞳。
尖った耳。
人ではない。
悪夢から現れたような姿。
だが。
少女を背に立っていた。
男は少女を見ていた。
恐怖に震える白い髪。
涙に濡れた瞳。
助けを求める小さな背中。
その姿が重なる。
十二年前。
浜辺で出会った少女と。
あの日の王女と。
男の身体は考えるより先に動いていた。
気付けば走り出していた。
剣を抜いていた。
守ろうとしていた。
それだけだった。
熊型怪物が唸る。
残る二頭も振り返る。
獲物ではない。
敵を見つけた目だった。
男は静かに剣を構える。
身体は軽かった。
長い年月をかけて回復した。
砕かれた骨も。
裂かれた筋肉も。
失われた力も。
今では戻っている。
かつて西の大国で。
国王直属親衛隊長と呼ばれた頃のように。
国内最強。
そう謳われた頃のように。
男は深く息を吸う。
そして怪物たちを見る。
三頭。
問題ない。
昔なら軍勢の中で戦った。
たった三頭など。
敵ではない。
怪物たちが咆哮を上げる。
男の赤い瞳が細められる。
次の瞬間。
地面が爆ぜた。
人と怪物。
その戦いが始まった。




