89話 パトラの選択
パトラは自分が聞いたことが信じられないと言う様子だった。
確かにそう思うのも仕方ないことだろう。
私とパトラが出会ってからそれほど長い時間を共に過ごしている訳ではないのだ。
自惚れだがパトラには懐かれているし信頼されてもいると思っている。だが国を捨て、死んだ両親を残して、それでも私について行くと優しくて小さな子どもがはたして言えるだろうか。
「このままだとパトラは悪い大人たちに利用されてしまう、それが私には悲しいんだ。私と共に来れば、君に優しい平穏を与えてあげられる。だから、パトラさえ良ければ、私と共に静かで穏やかな緑溢れる場所で毎日楽しく過ごそう」
正直言うと、パトラが私の手を取る可能性は五分もないと思っている。
だからこれはただの自己満足。
「え……と……」
困惑するパトラの手を優しく握る。
きっと頭の中が混乱して訳が分からなくなってしまっているのかもしれない。
だからそれ以上は何も言わず、ただ手を握ってしばらく彼女の決断を見守っていたが、やがて彼女はゆっくりと手を離した。
「ホシミ……パトラは、一緒にはいけないよ……。ホシミのことはすき、だよ? でもね、前におかーさまがいってたの。おうぞくとしてのつとめをはたしなさいって。意味はよくわかんないけど、それはきっとパトラにしかできないことだから……。だから、その……あの……ね」
涙目になりながら懸命に言葉を紡ぐパトラ。彼女は身を起こすと両手で私の顔を押さえて───
「ちゅっ」
唇に可愛らしいキスを降らせた。
予想外のパトラの行動に驚いた私は、彼女の寂しそうな笑みを見てしまった。
まるで別れを確信したような表情は、私の記憶の最も深い場所にある黄昏の海岸線を呼び起こした。
「おかーさまがお口でのちゅーは、パトラにとってたいせつでだーいすきな人にあげるものだって言ってたの。だからホシミにパトラのちゅーをあげるの。……ぐすっ、さみしい、けどっ、パトラは、おうぞくだからっ、つとめをはたすのっ、でもっ、ホシミともっといっしょに居たかった!! おとーさまもおかーさまもいなくなっちゃったのに、ホシミもいなくなっちゃうなんてイヤだよぉ!!!」
堪え切れなくなった涙は次々と溢れ、頬を濡らして私の顔に降り注ぐ。
私は身体を起こしてパトラを抱き締めた。するとパトラも私を抱き締め返して、胸に顔を当てて大声をあげて泣き出した。
一度堰を切った涙は止まることを知らず、泣き疲れて眠ってしまうまでパトラは泣き続けたのだった。
泣いたことで再び目元を赤く腫らしてしまったパトラをベッドに横たえる。頬にかかる栗色の髪が涙で濡れて張り付いてしまっていたのを手で払いながら、優しく頬を撫でた。
随分と酷な選択をさせてしまったかもしれない。だがパトラの気持ちを無視することは私には出来ないし、そんなことをした私を塔で待っている彼女たちが許してくれるとも思えない。
しかしパトラから言葉を聞けたおかげでこれからの行動が進めやすくなったとも言える。
パトラは『王族としての務めを果たす』と言っていたのだ。それが母からの教えであるとも。
ならば、その為の国が無くなってしまえばどうなるだろう。パトラの尽くす国が無くなればパトラは王族では無くなりただの一人の女の子になれる。
そうなればパトラを縛るものは何一つ無くなり、自分の意思で出歩くことが出来るようになる。
それに私は元々、シン国を滅ぼす為に来たのだ。どうあってもパトラの願いと相容れることは無い。
私は私の目的を果たし、パトラはパトラの務めを果たし───。その先でまた共に在れるよう、最善を尽くすのが私の出来ることだろう。
眠っているパトラの頬から手を離し、立ち上がろうとするがその前に。
「大切で大好きな人と言ってくれて、嬉しかったよパトラ」
先ほど彼女からされたように、触れるだけの優しいキスを贈った。
もうそろそろ日が昇る。今日はいつもより早めに退散するとしよう。
次にパトラと会う時は全てが終わった後になるか、それとも騒動の渦中になるか。それは分からないが、無事に再会することが出来たその時は再び彼女に笑みを浮かべて貰えるように全力を尽くすと誓うのだった。
ーーーーーー
ホシミがパトラとの逢瀬を重ねていたその頃。
一人の少女が夜の森を駆け抜けていた。視界が悪くて何も見えない筈だが、少女は迷い無く足を進める。
普段好んで着ているワンピースを脱ぎ、現在は丈夫で使い込まれた旅装に身を包んでいた。背中には弓矢と大きな剣。フードを被った頭部からは種族的特徴の長い耳が覗いている。
「とりあえずここまで来れば……。ホシミさん用の精力剤の材料集めという方便でここ数日はしょっちゅう留守にしていましたから、今回も材料集めに行っているものだと思ってくれるに違いありません」
速度を落とし、背後を振り返りながら一息吐いた。
一度立ち止まり水筒から水を一口飲んでから今度は歩き始める。
「初日からばれずに行けるとは思ってませんでしたから用心に用心を重ねて回数を重ねましたけど、まさかクルルさんがあそこまで追跡が得意だなんて思いませんでしたよ……」
とほほ、という声すら聞こえてきそうな独白に、返すものは何もない。だがそんなことは気にせずに、彼女は前を向く。
「待っててくださいね、ホシミさん。今からあなたの隣に行きますから」
彼女の胸中には、愛しい人に会いたい気持ちと、きっと怒られてお仕置きされるだろうなあという気持ちがある。
これでも最初は素直に言うことを聞くつもりだったのだ。だが途中から段々と納得出来なくなってきた。理屈ではなく感情が、このままではダメだと強く訴えてくるのだ。
あの人に愛されて守られて、遠くない未来にはわたしも子どもを授かるかもしれない。それはとても幸せなことだ。
だけど、やっぱり与えられっぱなしは性に合わない。わたしも彼に与えたいのだ。
きっとあの人は「もう充分貰っている」と言うのだろう。でもそれじゃあわたしが納得出来ない。
迷惑かもしれないなんて考えるのは辞めた。押し付けでも良いじゃないか、わたしはあの人の隣で、あの人の為すことを全力で支えるだけだ。
「何てったって、わたしたちは夫婦なんですから」
そう言って再び少女は走り出す。
彼女の右手の薬指に嵌められた紫色の指環が、行く先を示すかのように月明かりを反射して淡く煌めいていたのだった。
そんな彼女を覗く、琥珀色の瞳には気付かずに。




