金色の光
小食堂が、一瞬で騒然となった。
扉が開き、衛兵が駆け込んでくる。誰かが医者を呼びに走る。給仕の侍女が「毒見役が」「毒だ」と口々に叫んでいる。
その音の全部が、遠かった。
華恋は床に膝をついたまま、腕の中のエマを見ていた。
「エマ。ねえ、エマってば」
呼びかけても、返事はない。紫色になった唇の隙間から、ひゅう、ひゅう、と細い呼吸が漏れている。その間隔が、さっきよりも長い。皮膚は蝋みたいに白く、額には冷たい汗が浮いていた。
汗を拭おうと触れた頬が、驚くほど冷たかった。
「殿下、医者はもう向かっております! しかし――」
補佐官の声が、後半だけ耳に入ってきた。
「毒の種類が分かりませぬ。解毒の処方は、それからでないと」
「なら間に合わせろ」
「は……ですが、この様子では」
この様子では。
その先を言わせまいとするように、華恋は叫んだ。
「エマ! 起きて! 起きてってば!」
肩を揺する。反応がない。
呼吸の間隔が、また、伸びた。
(待って)
胸の奥で、何かが凍りつく。
(待って、待って、待って。うそでしょ。だってさっきまで――)
さっきまで、笑っていた。冷めないうちに召し上がってくださいね、と。目を細めて、いつもの顔で。
この世界に落とされて、何もかもが冷たかった十日間。
食べられない朝も、眠れない夜も。誰も口をきいてくれなかった日も。この人がいたから、まだ立っていられた。
姉の面影を重ねて、甘えて、寄りかかって。
――この世界で、たったひとりだけ。
「帰りたい」と泣く私を、そのまま抱えていてくれた人。
(やだ)
腕の中の身体が、すこし重くなった気がした。
(やだ、やだ、やだ!)
「――やだあああああっ!!」
エマの身体を、めちゃくちゃに抱きしめた。
その瞬間だった。
視界が、白く灼けた。
◇
音が、消えた。
あたたかい。掌の下から、胸の底から、頭のてっぺんから――何かが際限なくあふれ出して、腕の中へ流れ込んでいく。
金色の光だった。
華恋の身体を中心に、光の波が広がっていく。床を這い、壁を駆け上がり、天井を舐めて、小食堂を白昼のように満たしていく。倒れた椅子が、割れた皿が、燭台の炎が、すべて金色の中に沈んだ。
「……なんだ、これは」
誰かの、呆けた声。
光の中で、エマの唇から紫色が退いていく。呼吸が、深く、ゆっくりになっていく。額の汗が引き、蝋みたいだった頬に、血の色が戻る。
そして、光は――部屋の中の人間たちにも、降り注いだ。
その中で、皇太子はゆっくりと、自分の左手を持ち上げていた。
手首から肘にかけて、白く引き攣れていたはずの古い傷跡が――金色の光の中で、跡形もなく消えていく。
「…………」
彼は、しばらくその腕を見つめていた。
それから、光の中心で少女を見た。何かに打たれたような顔で。
(お願い)
エマを抱きしめたまま、目を閉じている。
(お願い、お願い、この人だけは。この人だけは、連れていかないで)
祈りは、言葉になっていなかった。ただ、腕の中のぬくもりだけを、必死に手放すまいとしていた。
やがて――
光が、ゆっくりと薄れていった。
◇
しん、と静まり返った小食堂に、エマの呼吸の音だけが残った。
規則正しい、深い呼吸だった。
「……エマ?」
顔を覗き込む。頬に赤みが戻っている。額の汗も引いている。唇は、もとの色をしていた。
ただ、目は閉じたままだった。
「エマ、エマ。ねえ、起きて」
「――聖女様!」
駆け込んできたのは、あの若い医者だった。息を切らせて膝をつき、エマの手首を取る。目を覗き込み、口元に耳を寄せ、それから――ゆっくりと、身体を起こした。
「……脈は、しっかりしています。呼吸も。……毒の兆候が、どこにもない」
「え」
「毒は、抜けています。跡形もなく」
医者は目を見開いて、それから華恋を見た。
「聖女様。あなたが……?」
分からない。分からないけれど。
「エマ、目、覚まさないんですけど」
「気を失っているだけです。身体には、なんの異常も」
医者はエマの瞼をそっと開いて確かめ、うん、と頷いた。
「じきに、目を覚まされますよ」
その落ち着き払った声に、華恋はへなへなと床に座り込んだ。
よかった。
よかった、よかった、よかった。
安堵した途端、身体から力が抜けた。
(……えっ、なにこれ)
腕が、重い。指先に力が入らない。膝が笑って、立ち上がろうとしても踏ん張りがきかない。全身が、鉛でも詰められたみたいに重かった。
「聖女様、お顔の色が」
「……大丈夫です。ちょっと、疲れただけ」
肩で息をしながら、それでも華恋はエマの手を離さなかった。
そのとき、背後で交わされる声が、耳に入ってきた。
「――殿下。ここまでとは、予想しておりませんでした」
補佐官の、押し殺した声だった。
「この人数の古傷までとなると、宮廷中に噂が回るのは、明朝までかと」
「……ああ。想定していたより、ずっといい」
(――え?)
華恋は、顔を上げた。
想定。
なんの話をしているんだろう、この人たちは。エマが死にかけたのに。いま、目の前で。
疲れきった頭は、それ以上うまく回らなかった。
けれどその言葉は、抜けない小さな棘みたいに、胸のどこかに引っかかったまま残った。




