晩餐
「――夕食? 殿下と?」
伝言を聞いたとき、華恋は思わず訊き返した。
「はい。今夜、離宮の小食堂で。給仕は私が務めます」
エマは、いつもと同じ顔で言った。
「なんで急に。……前に断ったときは、そのままだったのに」
「さあ。殿下のお考えは、私には」
言いながら、エマはもう衣装櫃を開けている。用意されていたのは、洗濯場の匂いがしない、淡い若草色のドレスだった。
「行かないって言ったら?」
「聖女様」
エマは振り向いて、にっこりと笑った。
「行きましょうね」
有無を言わせない笑顔だった。粥のときと同じ種類の。
◇
夕刻の小食堂。給仕の支度をするエマのそばに、鉄灰色の髪の侍女長が立っていた。
「準備は」
「整っております」
「毒見は、あなたが」
「はい」
カトリーヌは短く頷き、それから、いつもより低い声で言った。
「殿下の御前です。粗相のないように。……頼みましたよ」
エマは、器を並べる手を止めた。
一拍の間があった。
「…………はい。分かっています」
◇
小食堂は、思ったより狭かった。
長すぎない卓に、燭台がふたつ。向かい合って座ると、皇太子の顔がはっきり見える距離だった。
正装ではなく、簡素な上着。髪も無造作に下ろしている。いつもの張り詰めた感じが、すこしだけ薄い。
「……その、なんで急に、夕食なんですか」
「食事は毎日するものだ」
「そういう意味じゃなくて」
「話をする機会がなかった」
皇太子はグラスに口をつけた。
「お前がこの離宮で何をしているのか、報告では聞いていた。……洗濯場だそうだな」
「文句なら侍女長様に言ってください。汚れたシーツを洗えって言ったのは、あっちなので」
「文句ではない」
意外なほど、静かな返事だった。
「働けと言われて、本当に洗い場へ行く人間は、そう多くない。……まして、聖女と呼ばれる者が」
褒められているのか、呆れられているのか。判断がつかなくて、華恋はスープに逃げた。
そのとき、エマが控えめに卓へ近づいた。銀のさじで料理をひと口ずつ取り、静かに口に運ぶ。毒見だ。この十日で、何度も見た光景だった。
皿を置くとき、エマと目が合った。
緊張で背筋が伸びきっている華恋に気づいたのだろう。エマは、そっと微笑んだ。大丈夫ですよ、と言うみたいに。
すこしだけ、肩の力が抜けた。
エマが下がるのを待って、皇太子は言った。
「――今日、干し場で商人と話していたな」
スープを飲む手が、止まった。
「……見てたんですか」
「通りかかった」
「テオが何か? あの人、石鹸の納品で……というか、変な話はしてません。洗濯機の話をしてただけで」
「せんたくき」
「押すと勝手に洗濯が終わる箱です」
「……そうか」
皇太子は、しばらく黙ってグラスを回していた。
「楽しそうだったな」
「え」
「あんな顔で笑うのだな、お前は」
なんと返せばいいのか分からなくて、華恋は黙った。燭台の炎が、小さく音を立てて揺れる。
「……この国で、恋人でも作ったらどうだ」
「ぶっ」
盛大にむせた。
「な、なんの話ですか急に!?」
「悪い話ではない。この世界に、お前を繋ぎとめるものがあったほうがいい」
「ないです。作りません」
「なぜ」
「なぜって……私、帰るので」
きっぱりと言うと、皇太子は目を伏せた。何かを言いかけて、やめたように見えた。
「……そうか」
「そうです」
沈黙が落ちた。気まずくて、華恋は話題を探した。
「あの、テオと話してたの、ほんとにくだらないことなんですよ。私の世界の話で」
「聞こう」
「え」
「聞かせろ」
そう言われてしまえば、話すしかない。
華恋は、日本の話をした。押すだけで洗濯が終わる箱。冷たいものが冷たいまま入っている箱。空を飛ぶ鉄の乗り物。遠くにいる人と話せる、手のひらに乗る板。夜になっても道が明るくて、真夜中でも店が開いていること。
「学校の帰りに友達とアイス食べて、写真撮って、意味のない話を三時間くらいして。それで『また明日』って言って帰るんです。毎日毎日、同じことしてて」
話しながら、自分の声が、だんだん止まらなくなっているのに気づいた。
「バカみたいでしょ。でも、それがいちばん――」
言葉が、途切れた。
うつむいて、スプーンを握り直す。
「……すみません。変な話しちゃって」
「いや……。想像がつかないな」
皇太子は、すこし可笑しそうに息をついた。
「つまりお前の国では、真夜中に、菓子と、雷で動く箱と、話す板を売っているわけだな」
「いや、その言い方だとすごい怪しい店なんですけど」
「怪しくないのか」
「怪しくないです! ふつうのコンビニです!」
「こんびに」
真面目な顔で復唱されて、噴き出してしまった。
「……いつか、見てみたいものだな。そういう夜を」
華恋は、まじまじと彼を見た。
さっきまでの張り詰めた線が、頬から顎にかけて、ゆるんでいる。目尻がわずかに下がって、口の端が、ほんのすこしだけ上がっていた。
「……殿下でも、そんなふうに微笑むことあるんですね」
言ってから、失礼だったかと口をつぐむ。
だが皇太子は、気を悪くした様子もなく、グラスを置いた。
「俺を何だと思っている。……そこまで非情な人間ではないつもりだ」
「え、いや、その」
「食え。冷める」
そっぽを向いた横顔を、華恋はしばらく見てしまった。
(……考えてみれば、この人のこと、何にも知らないな)
そう思ったら、急に気まずくなった。
助けを求めるように、壁際のエマへ視線を向ける。だがエマは、静かに微笑み返すだけで、何も言わなかった。
……そういえば。
「……エマ、今日、なんか静かじゃない?」
エマの肩が、小さく跳ねた。
「……殿下の御前ですので」
「そういうの、気にする人だっけ」
「気にします。……殿下の御前で気にしないでいられるのは、この世界で聖女様おひとりですよ」
「うわ、なにそれ。私が悪いみたいじゃん」
「聖女様。冷めないうちに、召し上がってくださいね」
エマは目を細めて笑った。いつもの、世話焼きの顔だった。
食事は、締めの果実酒漬けまで進んだ。
エマが銀のさじで、それをひと口。
――そのときだった。
さじが、指から滑り落ちた。
がしゃん、と甲高い音が響いて、盆が床に落ちた。
エマが、喉を押さえていた。
痛みをこらえるように眉を寄せて――華恋と目が合うと、何かを言おうとするみたいに、唇を動かした。
声は、出なかった。
膝から、崩れ落ちる。
「エマ!?」
椅子が倒れる。華恋は駆け寄って、その身体を抱き起こした。
エマの唇が、紫色に変わっていく。呼吸が、ひゅう、ひゅう、と細く鳴る。目の焦点が合っていない。
「エマ、エマ! どうしたの、ねえ!」
「――毒だ」
背後で、皇太子の声がした。
「医者を呼べ。急げ」




