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洗い場の日々

異世界に来て、十日が経った。


洗い場の朝は、もう華恋の日常になっていた。灰汁はお湯で溶く。染みは踏んで押し出す。最初の日にたった四枚だった洗い上げは一日十二枚になり、昨日はついに、ミナに一枚だけ勝った。女たちの呼ぶ「聖女様」からはいつのまにか棘が抜けて、あだ名みたいになっている。噂も変わった。水晶を光らせられない偽者、から――洗い場で働く変わり者の聖女様、へ。


偽者よりは、ずっといい。


変わったことは、ほかにもある。


五日目、皇太子の指示で家庭教師がついた。若くて、やたらと顔のいい大司教様。才を買われて異例の出世をした人らしく、夕方の書庫で、この世界の歴史や成り立ち、聖女の伝承を教えてくれる。書庫への出入りも自由になった。


帰り方が本に書いていないことは、知っている。記録という記録を調べた、とあの人は言っていた。それでも、知らない世界のことを知らないままにはしておけない。手がかりがどこに転がっているかなんて、誰にも分からないのだから。まずは、知ることから。


書庫の鍵は、カトリーヌから直々に手渡された。


「……汚れた手で、本に触れないことね」


「洗ってから触ります。洗うの、得意になったので」


嫌味は、言い返せるようになった。


夜は夜で、日課がある。寝る前に、エマが荒れた指へ一本ずつ軟膏を塗ってくれるのだ。「働き者の手になっていきますねえ」と、うれしそうに。


   ◇


十日目の昼。干し場は、よく晴れていた。


シーツを竿に掛けていた華恋は、隣のミナが、指先を庇うように動かしていることに気づいた。


「ミナ、手、どうしたの」


「ん? あかぎれ。いっつもこうだよ」


差し出された小さな手は、節々が赤く割れて、ところどころ血が滲んでいた。十二歳の手じゃない。毎日、水と灰汁で働いてきた手だった。


「痛いでしょ、それ」


「慣れてるもん」


慣れてる、じゃないでしょ。


ふと、大司教様の言葉がよみがえった。


――聖女の力は、祈りから生まれる。そう伝えられています。


(……祈り、ね)


華恋はミナの手を、そっと両手で包んだ。


(治れ)


祈る。念じる。水晶の前でも出なかった何かを、掌に集めるつもりで。


(治れ。治れってば。こういうときのための聖女でしょ、私)


……。


何も、起こらなかった。


ミナの手は、あかぎれだらけのまま、華恋の手の中であたたかいだけだった。


「……カレン? なにしてるの?」


「…………おまじない。効かなかったけど」


「なにそれ、へんなの!」


けらけら笑うミナに、華恋は「うるさい」と口を尖らせた。


(ほんっと……肝心なときに、何も出てこないんだから)


「今夜、うちに来なさいよ。エマの秘蔵の軟膏、塗ったげる」


「軟膏! やった!」


そのときだった。


「――それが、噂の聖女様?」


振り向くと、若い男が立っていた。年は十七、八。仕立てのいい外套に、磨き上げられた靴。指には大ぶりの指輪がふたつ、日の光を受けてじゃらりと光っている。その後ろでは、人夫たちが石鹸と灰汁の樽を、荷車から次々と降ろしていた。


「あ、テオだ!」


ミナが手を振った。


「よ、ミナ。また背ぇ伸びてないな」


「うるさい! テオこそ、また指輪増えてる!」


「増えた。儲かったからな」


悪びれもなく言って、テオと呼ばれた男は、ミナの頭をわしゃわしゃと撫でた。


「テオはね、商会のえらい人なんだよ。石鹸も灰汁も、ぜーんぶテオのところの品なの」


「えらい人は、自分で納品には来ない。今日は別件だ」


男は、遠慮のかけらもなく華恋をまじまじと見た。


「あんたが、例の。『押すだけで洗濯が終わる魔法の箱』の話をしたっていう」


「……ミナ。言ったでしょ、あの話は」


「だって、テオ、おもしろい話には銅貨一枚くれるんだもん!」


「そのとおり。おもしろい話は、金の卵だ」


テオは樽のひとつに勝手に腰かけた。


「で? その箱、動力はなんなんだ。火か? 水車か?」


「電気」


「でんき?」


「えっと……雷、みたいなもの」


「雷を飼ってるのか、あんたの国は」


「飼っては、ない」


思わず吹き出してしまった。テオの質問は止まらない。箱の大きさは。値段は。一度に何枚洗える。庶民でも買えるのか。


「なあ、それこの世界で作れたら、大儲けだと思わないか」


「無理でしょ。雷いないし」


「回すところだけなら、水車でいけないか? ……金なら、うちにある」


「……あ。回すだけなら、いけるかも」


つい、乗ってしまった。


敬語もない。様もない。身分もない。くだらない話が、くだらないまま、ぽんぽん転がっていく。


(……この感じ、久しぶりだ)


教室の休み時間みたいだ、と思った。誰かの機嫌も、誰かの思惑も考えずに、ただ喋って、ただ笑う。


ふと気づくと、華恋は声を出して笑っていた。


   ◇


その様子を、回廊の陰から見ている目があった。


皇太子は、柱に手を置いたまま、しばらく黙って干し場を眺めていた。


シーツの白がはためく向こうで、少女が笑っている。商人の軽口に、肩を揺らして。洗い場の女たちの輪の、真ん中で。


「殿下。そろそろ、会議のお時間が」


背後の補佐官が、控えめに声をかけた。


「……ああ」


皇太子は柱から手を離し、歩き出した。数歩進んで、立ち止まる。


「エマに伝言を。今夜、聖女と夕食を共にする。支度をさせておけ」


「……夕食、でございますか」


補佐官が、わずかに目を見開いた。


「二度は言わん」


「は。……ただちに」


洗い場からは、まだ笑い声が聞こえている。


それを背に、皇太子は回廊を歩き去った。


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